松戸陸軍飛行場

松戸市、鎌ヶ谷市に残る飛行場跡 

  

 逓信省中央航空機乗員養成所と付属する「松戸飛行場」

 

現在、松戸市の松飛台にある自衛隊敷地は、かつての松戸陸軍飛行場であり、その前身は1940年(昭和15年)3月に民間の操縦士や整備員を養成する目的で設立された逓信省中央航空機乗員養成所(松戸航空機高等乗員養成所)の飛行場である。通称は、「松戸飛行場」である。民間航空機乗員として、大空での仕事を目指し、多くの若者が希望に燃えて入所した。

 

中央航空機乗員養成所の設立に先立つこと、3年半以上前、大日本飛行協会航空機訓練所松戸飛行場が江戸川河畔に設置された。これは民間航空機乗員養成というよりは、専ら大日本飛行少年団のグライダー練習場として利用され、面積も6万8千坪(224千平米)しかなかった。

 

逓信省中央航空機乗員養成所、のちに改称された松戸高等航空機乗員養成所は、民間の操縦士や整備員を養成する目的で設立されたが、戦局が進み、松戸飛行場は日本の敗色も濃くなってくると事実上軍の管轄となった。そもそも、帝都防空のための「陸軍基地」である飛行場としても位置づけられ、建設時から陸軍が関与し、その所長も陸軍少将が務めていた。

この逓信省中央航空機乗員養成所は、逓信省が管轄した民間航空機要員養成の最高学府であった。学生全員が官費生で、高等工業学校並みの教育が施されたため、レベルが高く、学生は全寮制で陸軍方式の生活を送った。

 

<陸上自衛隊松戸駐屯地の一角>

 

 

中央航空機乗員養成所は、操縦科(一年)、機関科(ニ年)の二科からなり、操縦科は二級操縦士の有資格者、機関科は甲種工業学校または中学卒業が入学要件であった。1940年(昭和15年)4月入所の第一期生は、操縦生が47名、機関生が30名であった。二級操縦士の有資格者といっても、米子、仙台などに設置された航空局乗員養成所(のちの地方航空機乗員養成所)の出身者が多かった。

なお、1941年(昭和16年)4月から航空局官制が改正され、地方航空機乗員養成所が正式に発足したが、当時既に地方航空機乗員養成所の出身者は陸海軍の下士官に任官し、戦場へ赴くケースがほとんどであった。1943年(昭和18年)4月には、中央航空機乗員養成所は松戸高等航空機乗員養成所と改称された。同時に福山には海軍系の福山高等航空機乗員養成所が設置された。

彼ら学生の多くが民間航空に活躍することを夢見て入所したのだが、太平洋戦争の勃発と戦局の悪化は、その希望を叶えることを許さなかった。その殆どが甲種予備候補生を経て、陸軍航空兵少尉に任官、軍用機の操縦に従事することになるが、それも陸軍航空輸送部に配属されるものが多かった。戦争末期に日本上空にも米軍機がさかんに飛来するなかで、戦闘目的でない輸送部の飛行機は、米軍機の格好の的であり、敵戦闘機に撃墜され、戦死する者も多かった。

<高等航空機乗員養成所卒業生の碑>

 

 「鵬友」などと刻まれている。各期卒業生のもの。

 

情報局が出していた「写真週報」1941年(昭和16年)6月11日発行の第172号 にある「翼持つ喜び 航空局中央乗員養成所 千葉県松戸」という記事には、「空だ!男の行くところ そして拓け東亜の航空路」と少年の大空への憧れをかき立てるような文句が並んでいる。また、「来れ! 大空に! 航空機乗員養成所とは?」という別頁の記事では、航空機乗員養成所について、以下のように紹介されている(旧仮名づかい、旧字体は変更した)。

航空局中央乗員養成所は、地方乗員養成所の修養期間を経て二等操縦士となり陸軍航空予備下士官の教育を終わつた生徒に最後の仕上げを施すところである。
 一等操縦士の技倆を充分に保有させるために、まづ練習機による盲目飛行の劇しい訓練が始まる。そして相当な気流の中を二、三時間は編隊のままでも飛行できるだけの技倆に達すると、大型実用機による本格的な盲目飛行の訓練に移る。これと平行して空中航法は推測、無線は勿論、天測もやり大部分の教育はこれに費されて、航法の技倆は一段と向上する。
 このように航法の学理と実際を併せ修得して始めて、如何なる難航路も突破し得る立派な航空輸送担当者が育成されるのである。」

「中央航空機乗員養成所には操縦科、機関科の二科があり、操縦科は地方養成所を卒業し陸軍または海軍の予備下士官候補者教育を受けて予備役陸軍伍長または海軍三等兵曹になつた二等操縦士、二等航空士の免状保持者を生徒とし、一等操縦士の資格を付与する。
 即ち中央養成所生徒は地方養成所卒業者に限られているのであるが、現在は仙台、米子の臨時養成所卒業者である予備役伍長、三等兵曹を生徒としている。本年三月末、第一期生徒が卒業したが、一部は地方養成所の教官に、大部分は大日本、満洲、中華の各航空会社の操縦士として就職している
 機関科生徒も同様地方養成所卒業者の中から銓衡の上採用するのであるが、現在は甲種工業学校卒業者またはこれと同等程度の者から選抜採用している。そして将来機関士として必要な学術科、即ち高等工業学校に準ずる航空工学、特に飛行機発動機及びその付属品の取扱に関する学術科を教育するのである。操縦科は一年、機関科は二年の課程である」

 

<「写真週報」の航空機乗員養成所の紹介記事>

 

 

 松戸飛行場の建設は、1939年(昭和14年)1月に鍬入れ式が行われた。起工したものの、資材と労働力の不足は深刻で、業者によって雇用された労働者のほか、地元の青年団、警防団、中学生などが勤労奉仕、地元住民も男子1円、女子70銭〜80銭の日当で参加した。1939年(昭和18年)8月から同11月までに動員された県下の学校生徒や警防団などは、のべ1万7047人にものぼったという。

工事終了は、1940年(昭和15年)3月末で、松戸飛行場と中央航空機乗員養成所が造営された。飛行場の規模は、東西1.2Km、南北1.2Kmで、地表面はすべて張芝された。養成所本部や生徒舎、講堂、工場などの建物が整然と並び、特に1940年(昭和15年)に出来た格納庫は当時東洋一という規模であった。

滑走路は現在の自衛隊グラウンド辺りを通っていたが、未舗装であった。張芝し、「地表面の排水と地下排水の併用」ということで、それなり工夫されているが、実際「松戸は雨や雪が降ると、滑走路が未舗装であるため排水が悪く」、「夜になるとよく霧が発生し、夜間の飛行訓練では事故が多かった」*という証言がある。

*「鎌ヶ谷市史 資料集17 近・現代 聞き書き」のなかの飛行第七十戦隊 鈴木節佳氏の証言

 

<陸上自衛隊松戸駐屯地の正門>

 

 

太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)9月には、陸軍第一〇飛行師団指揮下の飛行第五十三連隊が所沢基地から移ってきて、ほとんど「松戸飛行場」は陸軍の飛行場になったのである。

 

なお、現在の地名、松飛台は、陸軍の松戸飛行場に由来する。そのほか、旧沼南町には藤ヶ谷陸軍飛行場があって、両飛行場は戦争末期「首都防衛」の任にあたった。

 

所沢から移ってきた飛行第五三連隊のなかから、1944年(昭和19年)11月には4名の特攻要員が指名されている。これについては詳しくは後述するが、震天制空隊というもので、米軍のB29の空襲に対し、真正面から邀撃するのをあきらめた師団が、酸素と 以外は武器を取り外し、B29に体当たりするという人命を軽視した戦術によって編成された。

 

熟練した飛行兵が戦死していくなか、「首都防衛」のためには未熟なパイロットも出撃せざるをえず、それでもよく戦ったが、武運つたなく戦死したり、この飛行場での訓練中の事故も相当数起こっている。

 

<陸上自衛隊松戸駐屯地に残る格納庫(西から)>

 

 

<陸上自衛隊松戸駐屯地に残る格納庫(東から)>

 

 

基地は現在の陸上自衛隊松戸駐屯地を東側の一角として、西は八柱霊園辺りまで広がり、墓地にも飛行機を隠す掩体壕があった。ちなみに、現在の松飛台は、陸上自衛隊松戸駐屯地の西側にあたり、「松戸飛行場」のあった台地という意味を込めて名付けられたものである。
遺跡としては、陸上自衛隊松戸駐屯地の敷地内にある飛行機の格納庫跡、民有地にある有蓋掩体壕基礎などがある。

 

<終戦当時の松戸飛行場とその周辺概略図>

 

 

 

表: 松戸陸軍飛行場の概要

 

項目

内容

現状

面積

開設当初:約132万平米(東西1.2Km,南北1.2km*、うち建物10万平米)、→終戦時:約156万平米(終戦時の「軍用地」:157町*、東西1.8Km,南北1.4km)

自衛隊敷地、住宅地、商業地等

滑走路

現在の自衛隊のグランド付近、北は現在の防衛省宿舎辺りから南は格納庫脇を通って現在のくぬぎ山駅近くまで滑走路があった。舗装されていなかったため、雨が降った後の排水が柏飛行場と比べて悪かったという証言あり。

現存せず。自衛隊のグラウンドなどになっている。

誘導路

四方に飛行場を取り巻くように存在し、南西の現在の八柱霊園周辺や北西側五香駅近くの住宅街などに存在した。

市街地化され、殆ど痕跡なし。

掩体壕

誘導路沿いに掩体壕が多数あった模様。南西側の現在の八柱霊園内にも存在した。

ほとんどが消失。ただ、飛行場の西側の農地と宅地に有蓋掩体壕のコンクリート製の基礎部分が残存。

待避壕、防空壕等

場所等未詳。

現在の有無も含めて不明。

格納庫

飛行場東部に東洋一と言われた巨大な格納庫2基。

自衛隊松戸駐屯地内に現存、倉庫として利用されている。

建物(付属施設を含む)

飛行場司令部、戦隊兵舎、医務室、松戸高等航空機乗員養成所の施設、グラウンドほか

戦隊兵舎が、一部自衛隊松戸駐屯地内に現存か。

航空観測所

不明。松戸市街地には松戸防空監視哨あり。

現存せず。

対空高角砲、機銃陣地

鎌ヶ谷市初富、船橋市丸山飛地に、松戸飛行場専任ではないが高射砲第115連隊の高射陣地などがあった。

現存せず。

その他関連施設等

高射陣地と関連して、松戸六高台に探照灯あり。照空隊陣地があったものと思われる。

現存せず。

 *「元軍用地ニ関スル調査」農林省開拓局第2部長宛、千葉県提出 1945年(昭和20年)1214日(防衛庁防衛研究所図書館所蔵)

 

 現在の自衛隊松戸駐屯地は需品学校や高射特科群を擁し、新京成電車の中から見てもそれなりの規模があるように思えるが、かつての松戸飛行場の三分の一にみたず、その一角をしめるにすぎない。自衛隊松戸駐屯地の北側の防衛省官舎のすぐ横や自衛隊の西側グラウンド脇には一般の住宅が密集しているが、そこもかつては松戸飛行場の一部であった。

 

<松飛台の住宅地の一角〜左側は防衛省官舎>

 

 

 

  墜落した中央航空機乗員養成所の訓練機搭乗員の慰安碑

 

 この逓信省中央航空機乗員養成所の訓練機が、現在の鎌ヶ谷市東中沢に墜落したことがある。時は1942年(昭和17年)9月10日である。その慰霊碑が、現在も建っているが、それは墜落地点に近い場所にもともとあったのを、少し離れた自然聖園に移したものである。

 

これは、ブログ「千葉県の戦争遺跡」にコメントを寄せたNYさんから場所を教えられ、訪ねたが、近所の酒屋さんで聞くと最近別の場所に移ったとのこと。その移転した場所を探すのに、鎌ヶ谷市郷土資料館の館長以下の方に聞いて、なんとかたどり着けた。

 移転した後の場所は、鎌ヶ谷市中沢のなかであるが、元の場所より南西にいった万福寺近くの「弥生の里」という自然聖園である。

 

「故 航空官補 田村弘 荻野義弘 殉職之地」とあり、鈴木竹徳陸軍少将の書によるもの。村人が墜落死した二人に同情して、事故のあった昭和17年に鎌ヶ谷村として建てたという内容が書かれていた。

 

 <現存する航空官補の慰霊碑>

 

 

 その碑文は、

(表面)

故 航空官補 田村 弘 荻野 義弘 殉職之地

       

                     鈴木竹 書

 

(裏面)

兩氏殉職ノ記

 田村荻野兩君ハ昭和十七年九月十日愛機ニ搭乘シ特種飛行猛訓練中

 此地ニ墜落殉職セラル洵ニ痛惜ノ極ナリ田村君ハ富山縣出身第二期

 操縦生ヲ修業シ人格技倆共ニ衆ヲ抜ク名教官タリキ荻野君ハ大阪府

 出身第三期操縦生ニシテ稀ニ見ル優良生徒タリキ時將ニ大東亞戰爭

 完遂ノタメ一億國民總進軍我航空ノ使命重大ナル折感更ニ深シ此報

 傳ハルヤ村民各位ノ格別ナル同情ハ翕然トシテ集マリ此地ニ煙絶エ

 ス村長■■■■■■■ヨリ此碑ヲ建テラル誠ニ感謝深ク茲ニ愈航空

 報國ノ決意ヲ新ニシ各位御同情ヲ感謝シ兩君ノ冥福ヲ祈ル

 

 昭和十七年十二月

  中央(××・・・×)員養成所長 陸軍少將 從四位 勲三等 鈴木竹書

                          鎌ヶ谷村建之

 

  ■:判読できず ×:故意に削られた部分

 

 

とあった。字が薄くなり読みにくい(摩滅したような感じの)部分と、一部故意に削られた箇所があった。

 

故意に削られた箇所とは、鈴木竹徳陸軍少将の肩書きである中央(逓信省航空機高等乗務か)員養成所長の一部である。なぜそうしたのか、よく分からないが、ひょっとしたら戦後も残っている固有名詞はあえて消したのかもしれない。

 

その二人が航空機による飛行訓練中に、どういう原因で墜落したのかは碑文からでは分からないが、太平洋戦争中に陸海軍を問わず搭乗員養成が急務のなか起きた不幸な事故であったことは間違いない。

 

このような事故の犠牲者は、この碑の航空官補だけでなく、また松戸飛行場が陸軍の「首都防衛」基地となってからも、空襲に邀撃に向かうなどして戦死したものもおり、そうした戦死者、事故死者の遺骨は、五香の善光寺に一時安置された。茅葺屋根で大きなケヤキの木のある、この寺の本堂正面に戦死者たちの亡きがらは、白木綿で覆われて祀られたのである。


五香とは明治初期の小金牧の開墾で五番目に拓かれた村という意味で名づけられた新地名である。善光寺は霊鷲山善光寺という浄土宗の寺であるが、小金原と呼ばれた当地には以前は寺がなく、1891年(明治24年)になって北小金の東漸寺の大康上人の遺志を継いだ弁栄上人が創建した。弁栄上人は手賀沼沿岸鷲野谷の農家山崎家の出身で、光明主義を掲げて大乗仏教の教えを追及した高僧である。

戦争中の五香は、飛行場の入口であったが、住宅密集地となった今とは違い、真っ赤な夾竹桃が咲き乱れ、数軒の農家の点在するのどかな場所だったそうである。


今も当時の雰囲気を残す、善光寺の境内には、高僧の墓などにまじって、戦後五香六実の町会が建てた戦没者供養塔がある。それ以外に、この寺と松戸飛行場を結び付けるようなものは、一見したところ残っていない。

 

 <善光寺にある戦没者供養塔>

 

 

 

 この戦没者供養塔は1952年(昭和27年)11月に町会が建てたもので、裏側におびただしい戦没者の氏名が刻されている。なお、追刻らしい文字で「中崎高柳を含む十三柱を合(祀)す」(カッコ内は示すヘンに正の字)「昭和三十三年九月 松戸市福祉協議会第四部会」とある。

 

   陸軍の飛行場となった松戸

 

 戦争末期、陸軍は「帝都防空」を任務とする飛行戦隊を首都東京近郊の各地に配置した。その根拠となる飛行場は既存の軍関係以外の飛行場を転用したり、新たに建設したりした。例えば、松戸市松飛台から鎌ヶ谷市にかけてあった逓信省松戸飛行場は、戦局が厳しさを増す中、陸軍管轄下となった。1944年(昭和19年) 3月に編成された、陸軍第一○飛行師団(天翔)隷下にあって、 松戸を根拠としたものは、飛行第五三戦隊、飛行第七○戦隊などである。そのうち、ここでは比較的長期に松戸にいた飛行第五三戦隊について述べる。

 

1944年(昭和19年)9月から所沢から移転した飛行第五三戦隊とはどのような部隊であったか。

この飛行第五三戦隊は、第一(まつなみ)、第二(こんごう)、第三(さざなみ)という三つの飛行隊と整備中隊からなり、夜間防空を主任務としたため、「猫の目部隊」、「ふくろう部隊」と呼ばれた。その配備された戦闘機は、二式複座戦闘機、屠龍である。第五三戦隊には、米軍機の本土空襲に備え、背中に斜銃二門を設置した対爆用屠竜が25機、ほかにやはり斜銃を設置された百式司偵改(一〇〇式司令部偵察機改)が数機が配備された。

屠龍は、現在の川崎重工が設計試作し、陸軍機となったもので、双発複座戦闘機として唯一実用された陸軍機であろう。1941年(昭和16年)から終戦まで、約1,690機生産されている。屠龍は、もともと大型機の迎撃や長距離戦闘で用いられた。しかし、その構造上、双発で、しかも複座であったために、機体が大きく、小回りが利かなかった。それで、夜間戦闘を行っていたのだから、操縦はかなり熟練を要したと思われる。また屠龍は、長距離を飛ぶことは得意であったが、高高度性能や、局地戦闘機としての運動性には劣り、別の戦隊では屠龍から同じ二式戦の鍾馗などに機種を変更するものさえあった。

 

 <空を往く屠龍>

 

 

 実際に第五三戦隊が初めて出撃したのは、1944年(昭和19年)11月1日で、初戦果はその23日後の11月24日の米軍B29による北多摩郡武蔵野町(現在の武蔵野市)の中島飛行機工場に対する初の戦略爆撃による空襲で、B29数十機と出撃可能なだけ出撃した屠龍が交戦、B29機1機を撃墜した。

以降も、学校を卒業したての多くの新任操縦者を抱えながら、隊員たちは夜間戦闘のため昼夜転倒した生活を送りながら、奮闘した。小林克巳中尉を長とする熟練者で一個中隊をつくって作戦任務にあたり、4名の教官をもって訓練中隊を編成して、隊員の早期育成にあたった。翌年3月10日の東京大空襲では、小林中隊がいち早く邀撃に向かい、B29十数機を撃墜する大きな戦果をあげた。

また1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲でも出撃、B29機を十数機を撃墜している。しかし、こうした迎撃戦で米軍機と交戦したり、松戸でも特攻隊が組織されるなどして、前途有為な若者たちが死んでいった。第五三戦隊だけで、終戦までに50人以上がなくなったという。

この飛行第五三戦隊は、1945年(昭和20年)6月16日に松戸から新設の藤ヶ谷陸軍飛行場に移動した。

 

 ああ震天制空隊

 

第一○飛行師団の当時の師団長であった吉田喜八郎少将が、その隷下各戦隊に戦闘機四機をもって、無線機と酸素のみで武装を外した、B29への体当り専門の特攻隊を編成させたのは、1944年(昭和19年)11月7日であった。飛行第五三戦隊でも、児玉戦隊長により青木哲郎少尉以下四名が特攻隊員に選ばれた。

 

1942年(昭和17年)4月18日にドゥーリットル陸軍中佐率いる米軍陸軍航空隊B25爆撃機16機が東京、名古屋、神戸を目標とした昼間爆撃は、日本本土への初めて空襲であったが、軍に限らず民間にも大きなショックを与えた。それから2年半たって、防空体制は、防空施設の整備強化や1943年(昭和18年)6月の工場家屋の疎開を含めた防空法改正などを行い、徐々に整えられていった。しかし、「超空の要塞」B29への防空対策としては、高射砲も迎撃戦闘機も質量ともに不足しているのが現実であった。

 

当時、1万m以上の高高度を飛ぶB29に対し、せいぜい6千mの高度が飛行最適高度として飛ぶようにしか設計されていない日本の戦闘機が立ち向かうのは無理があり、実際1万m以上の高高度にまで上昇できた機はわずかであった。これは「予期したる戦果を挙げざりし主原因は我の科学技術の立ち遅れ」と吉田師団長をして嘆かしめた、日本とアメリカの飛行機の設計・生産に関する技術、能力の格差に起因するものであった。その格差を思えば、日本陸軍は相当無理をして米軍機空襲への邀撃を行っていたのである。

 

<震天制空隊の屠龍>

 

  

機体の横に描かれているのは鏑矢

 

その特攻隊は、東久邇宮防衛総司令官によって、「震天制空隊」と命名された。名前はそうそうたるものであるが、第五三戦隊の屠龍からも、機体を軽くするため機銃や搭乗員を保護するための防弾板が取り払われた。

その丸腰になった機体には、

 

 帰らじと かねて思へば 梓弓 なき数に入る 名をとどむる 

            

という楠木正行の歌にちなんで、鏑矢が描かれた。楠木正行は言うまでもなく、楠木正成の子であり、父正成が湊川で戦死した後も、楠木家の惣領として南朝のために戦った。この歌は、四条畷に足利の大軍を迎え撃つべく正行出陣の折に詠んだ辞世の歌である。屠龍の機体に描かれた鏑矢は、歌に出てくる梓弓から足利の大軍に見立てられたB29の群れに向けて放たれ、生還を期せず迎え撃つとの決意を表しているのであろう。

 ちなみに松戸の震天制空隊の屠龍に描かれた鏑矢は、赤と白の派手なものであったという。

 

しかし、何れにしても彼我の飛行機の能力の格差を埋める非常手段として、「体当り」による特攻が選択され、戦闘機から武装や防弾板を外し、脱出できるかどうか分からない「体当り」をさせたのであるから、これは乗員の生命を軽視した論外の策といわざるを得ない。

 

彼我の科学技術力の差は、高高度戦の立ち遅れだけでなく、レーダーも日本側の夜間戦闘機には殆ど装備されておらず、その面でも日本側は遅れていた。米軍の空襲は夜間に行われることが多く、それに立ち向かう日本軍の戦闘機も夜間戦闘能力がなければならない。レーダーを備えていない日本陸軍の戦闘機は照空灯の明りが頼りで、照射目標を目視で接敵攻撃するというものであった。後に八木アンテナをつけた機上射撃用の電波兵器が試作され、屠龍2機に取り付けて実証実験したが、実用化に至らなかった。

 

これに関しては、以下のような証言がある(「続・陸軍航空の鎮魂」より、佐々利夫氏 [元陸軍飛行第五三戦隊付 大尉])。

 

「我が国では、夜戦用射撃管制装置の実用化にはほど遠く、20年の中頃やっと試作機・タキ二号が完成し、53戦隊の二式複戦2機の頭部を切断し重爆の機種のようにプラスチックの窓を取り付け、前方には八木アンテナを突き出した改装機に試作タキ二号機を搭載して実験を始めた。しかしながら期待どおりに作動せず、終戦までついに日の目を見ることができなかった。われわれは、最後まで、照空灯協力の原始的攻撃法によらざるを得なかった。従って、照空部隊の展開しない都市や、又展開しても天候不良のため照空灯の光芒が雲に妨げられる場合は攻撃が成立せず、敵機のじゅうりんに任せるほかなかった。」

 

非常手段に訴えた特攻隊の編成にも関わらず、B29を撃墜することは容易ではなく、B29の防御火器に阻まれ、また高高度性能に差があるあまり、接敵すらままならなかった。実際にB29に体当たりに成功しても、「超空の要塞」と呼ばれた堅牢なB29が墜落しないこともあり、B29の周りにP51などの戦闘機が護衛している場合には、武装をはずし丸腰になった震天制空隊ではなすすべがなかった。

 

こうして、震天制空隊は隊員の努力にかかわらず、期待された戦果をあげることができなかった。飛行第五三戦隊の震天制空隊は、1945年(昭和20年)4月まで6次にわたって編成され、11名の隊員のうち、8名が戦死した。

 

 <震天制空隊の隊員>

 

 

 第四次第三震天制空隊(1945年、青木哲郎氏蔵)

 『戦争の記録と記憶 in鎌ヶ谷』より許可を得て転載。

 

 新設の藤ヶ谷陸軍飛行場へ移った飛行第五三戦隊

 

藤ヶ谷陸軍飛行場は、現在の海上自衛隊下総航空基地の場所にあった。1932年(昭和7年)、東洋一の規模を誇り、広大な敷地をもつ「藤ヶ谷ゴルフ場」(武蔵野カントリークラブ「藤ヶ谷コース」として開発された土地を、1944年(昭和19年)には、陸軍が首都圏防衛を目的として接収、同年秋頃から鎌ヶ谷と風早村(現:柏市)にまたがって飛行場の建設が開始された。工事には、大相撲の力士や付近の住民、中学、女学校などの生徒、約1200人の朝鮮人労務者が動員された。中学生たちは、学徒動員で1ヶ月泊り込みで飛行場建設に奉仕した。

 

そして、藤ヶ谷陸軍飛行場として完成したのが、1945年(昭和20年)4月である。その2ヶ月後に、飛行第五三戦隊が根拠とし、さらにその2ヶ月後に終戦となって、米軍に接収された。藤ヶ谷飛行場は、わずか4ヶ月弱で日本軍から米軍の飛行場となり、シロイ・エアー・ベース(Shiroi Air Base)と呼ばれた。以降、15年以上もの間、米軍基地であったが、1961年(昭和36年)6月に海上自衛隊が基地の全面返還を受け、現在に至っている。

 

現在、下総航空基地と呼んでいるが、海上自衛隊が入ったため、陸軍の飛行場であったにもかかわらず、この基地には旧海軍の戦艦長門や陸奥で使われた40糎被帽徹甲弾や魚雷などが展示されている。

 

この藤ヶ谷飛行場の掩体壕は、近年まで鎌ヶ谷市初富に残っていたが、現在はなくなっている。しかし、藤ヶ谷飛行場跡の近く、鎌ヶ谷市軽井沢の台地端の山林のなかに、コンクリート製の地下格納庫1基が大部分を地表面に出して残っている。これは、藤ヶ谷陸軍飛行場関連の遺構と考えられる。地元の人に聞くと、防空壕と呼んでいるが、これは防空壕ではなく、燃料等を保管した地下格納庫と呼ぶべきものである。

それは鎌ヶ谷市軽井沢の台地端にあるが、東側低地から見上げると、円形のコンクリートの鍔状の端部が草の中から見える。その鍔状の端部は円筒状の格納庫本体と接合し、端部には1m四方の小さな穴があって鉄の扉でふさいである。台地に上がってみると、コンクリートのドーム状の地下格納庫胴体の天井部分が地表面に露出しているのが分かる。
ドーム状の格納庫胴体天井部分は一部土に埋もれ、埋もれている部分で直角に曲がり、東西に9m強、南北に22mほどものびている。その先端は開口部であるが、人が入らないように鉄の柵でふさがれている。
コンクリートは砂利が混ぜてあり、鉄筋も使われている。格納庫の胴体の内側は半円、外側には鎬がついて七角形になっており、南北にのびる長い方が幅も広く4.8m以上、短い方で幅2mほどである。

 <藤ヶ谷飛行場の地下格納庫>

 

 

 

<地下格納庫の構造>

 

 

 

  住宅地に残る五式戦の掩体壕基礎

 

 この松戸飛行場にも、誘導路や掩体壕といった、空襲時に飛行機を分散待避させるための物が存在した。しかし、戦後飛行場跡地で開拓が始まり、さらに市街地化が進むと、そのようなものは次第に失われた。終戦後の航空写真にも、誘導路やそれに沿った掩体壕がうつっている。かつては八柱霊園のなかにも、掩体壕跡があったらしい。しかし、市街化の波は、こうしたものも消滅させていった。多くは無蓋掩体壕であったが、土でできたものは開発に伴って消失しやすい。

松戸飛行場関連では、わずかに、五香駅の南、飛行場の西北にあたる住宅地の中に残る畑地とその所有者の宅地内に掩体壕の基礎部分が残っている。

これはコンクリート製であり、大きな砂利などが混ざったもので、三角柱を横に寝かせたような状態で地表面に出ているが、このコンクリート基礎は地下にも深く残っている。畑地では、基礎部分がそのまま出ているが、宅地になった部分は通行の妨げになるせいか、地表面に出ていた部分を削り取っている。

所有者のお話では、本来は有蓋掩体壕で、コンクリート基礎の上にボルトで木組みをし、さらに上に萱などを乗せ、最後には土を1mほど積み上げて擬装したのだという。掩壕体の下部は多少掘り下げてあり、誘導路から運んできた飛行機をバックで掩体壕に入れる。その開口部は東側で、幅は30mほどもあったろうか。尾翼が収まる部分は、つぼまっている。

 

<松戸の住宅地に現存する掩体壕基礎>

 

 

 

また、所有者の方によれば、現存する掩体壕は太平洋戦争末期に試作機が作られ、実戦に使われようとしていたキ-100、すなわち五式戦闘機用だという。

キ-100は川崎航空機が開発、製作したもので、1945年(昭和20年)2月に正式採用された日本陸軍の単発単座戦闘機。三式戦闘機「飛燕」の液冷エンジンを空冷のハ112-II(金星)に換装した改良型である。飛燕にくらべて重量で約300kg軽くなった上、エンジン出力が大きくなったため、最高速度と高高度性能を除いて性能が著しく向上した。五式戦闘機と名付けられたキ-100は、上昇力が向上、運動性もよく縦横に飛びまわり、整備の簡素化とあいまって、優秀な戦闘機であった。B29による高高度爆撃への対策として、本機に排気ガスタービン過給器をつけ、1万m内外における性能の改善をはかったものを「キ-100 2型」として、1945年(昭和20年)5月に第一号機が完成し、生産準備に着手したが、実用にいたらなかった。キ-100を配備した部隊は、飛行第二四四戦隊が知られるが、同戦隊は本機により1945年(昭和20年)7月25日、八日市市付近上空で18機のF6F艦上戦闘機ヘルキャットに対して、飛行第二四四戦隊所属機のうち16機で邀撃し、被撃墜2機と引き替えに、撃墜12機と報じられる大きな戦果をあげた。

松戸では、終戦直前の1945年(昭和20年)5月に、飛行第一八戦隊が柏から移駐してきた。入替りに、翌月飛行第五三戦隊は、藤ヶ谷飛行場に出て行った。この飛行第一八戦隊が松戸に終戦まで駐屯していたのだが、この戦隊の戦闘機はもともと三式戦、飛燕で構成されていた。五式戦は飛燕のエンジンが液冷式であったのを空冷式に改めて製作された改良機種であった。柏飛行場の頁でも述べたが、飛行第一八戦隊は五式戦闘機(キ-100)へ機種を改変、1945年(昭和20年)6月に松戸へ移動、米軍機邀撃を続けた。飛行第五三戦隊所属で軍曹であった原田良治氏は著書『帝都防空戦記』において「昭和20年3月から5月にかけ約20機を5式戦に機種改変し松戸基地に移駐して防空任務に服した」と述べている。五式戦は飛行第一八戦隊がいち早くこれを導入したため、五式戦闘機の掩体壕が松戸に存在した訳である。

 

<五式戦闘機>

 

 

現在残っている掩体壕の基礎部分は、以下の図解の通り、東側開口部に近い右側の主翼が入る部分である。それは2mほどの長さのコンクリート製の三角柱が畑に転がっているようにしか見えないが、よく見ると、その西側にある宅地まで地面にコンクリートの塊が続いていることが分かる。

 

 <掩体壕の図解>

 

 

中央の飛行機模型はキ-100ではなく隼、また模型画像はりん工房より借用

 

<掩体壕の飛行機胴体に近い部分>

 

 

 

  <掩体壕の飛行機尾翼に近い部分>

 

 

 

 他にも、遺構はありそうなのだが、ただ調査されていないだけなのかもしれない。松戸飛行場のものではなく、陸軍工兵学校の兵舎に付随したものらしいが、松戸市の小野遺跡の発掘により防空壕が2つ土中から発見されている。松飛台は殆ど住宅地や商業地、工場用地などになっているが、場所柄かつては防空壕なども多数存在していたはずである。今後の発見と研究に期待する。

 

 

参考文献:

       『鎌ヶ谷市史研究』第14号 「松戸飛行場と『帝都』防衛」 栗田尚弥 (2001)

       『鎌ヶ谷市史研究』第19号  「『帝都』防衛からシロイ・エアーベース、そして
                                                    自衛隊基地へ」 栗田尚弥 (2005)

                                         『鎌ヶ谷市史研究』:鎌ヶ谷市教育委員会発行

      『日本軍用機の全貌』  航空情報編集部編 酣燈社 (1955)

      『松戸の歴史散歩』 千野原靖方著 たけしま出版 (2000)  

             『帝都防空戦記』   原田良治  図書出版社 (1981) ほか

 

 なお、上記掩体壕については、土地所有者の方に撮影許可をいただいた上に、色々とご教示いただきました。また、松戸飛行場関連の遺構や周辺遺跡の情報について、松戸市の学芸員の方々にはお世話になりました。鎌ヶ谷市軽井沢の地下格納庫や松戸飛行場関連の掩体壕について、鎌ヶ谷市教育委員会、鎌ヶ谷市郷土資料館の学芸員の方にご教示いただきました。

文中、藤ヶ谷飛行場に関わる記述もありますが、藤ヶ谷飛行場を単独で取り上げるのは直ぐには無理と考え、あえて掲載しています。

 

 

 リンク  

柏陸軍飛行場

柏飛行場とロケット戦闘機秋水

印旛陸軍飛行場

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