柏飛行場とロケット戦闘機秋水

柏市に残るロケット戦闘機の戦跡 

  *柏十余二(正連寺)の秋水地下燃料庫跡附近は現在立ち入り禁止です

 ロケット戦闘機秋水とは

 

戦争末期、頻々として日本国土を空襲する米軍のB29やP51は、1万メートルの高高度を飛ぶ爆撃機あるいは戦闘機であった。特にB29は、空の要塞とも言われた。それを迎撃するにも、日本陸海軍の戦闘機、零戦、隼は既に時代遅れ、月光、雷電、紫電、紫電改では高高度にあがるまでに時間がかかる上、高空性能が悪く、歯が立たなかった。陸軍の高射砲も、一般的な八八式七十五粍野戦高射砲では、最大射高9千百メートルと届かない。1万メートルに届く九九式八十八粍高射砲がのちに量産されるが、間に合わず、他に新しい高射砲も開発されたが、故障が多いなど問題もあり、配備される数もすくなかった。

そこで、ドイツのメッサーシュミットのロケット戦闘機を模して、ロケット戦闘機を開発し、迎撃用とすることが計画された。

 

<メッサーシュミットのロケット戦闘機>

 

 ベルリン・ガトウのドイツ空軍博物館に展示されるMe163B

 

ロケット戦闘機・メッサーシュミットMe163Bと ジェット戦闘機・メッサーシュミットMe262の機密資料を積み、1944年(昭和19年)3月に、フランスのロリアンを出航した2隻の潜水艦のうち、先発の呂501は大西洋にて撃沈された。後発の遣独潜水艦伊29は、7月14日、日本占領下のシンガポールに到着したものの、シンガポール出港後バシー海峡でアメリカ海軍の潜水艦ソーフィッシュ に撃沈されてしまった。しかし、伊29潜に乗っていた巌谷英一海軍中佐が、ドイツ航空省から渡された資料を零式輸送機に乗り換えて日本に持ち帰り、その資料をもとに日本版のロケット戦闘機は設計・開発されたのである。

巌谷英一海軍中佐が持ち帰った資料は、Me163B の機体外形3面図と、ロケット燃料の成分表と取扱説明書、ロケット燃料噴射弁の試験速報、巌谷中佐の実況見分調書のみと、極めて不完全であった。

 

この開発のためには当時としては珍しく、陸海軍の垣根を越えて人的、物的なリソースが投入され、大枠としては共同作業が進められた。実務は三菱重工が担うことになり、三菱の技術陣の叡智が集められた。そのロケット戦闘機が、秋水である。

 

<わずかに伝えられたメッサーシュミットの図面>

 

三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料館にて、許可を得て撮影(撮影:森ーCHAN)

 

秋水は、乗員一名、尾翼のない三角形の主翼のみの小型飛行機ながら、甲液(過酸化水素80%)と乙液(水化ヒドラジンほか)という液体燃料の混合による反応により推力jを得て、最高時速900km、約3分半で高度10,000mまで達する、という画期的な戦闘機であった。

 

それは、10,000mという高高度に駆け上がって、B29などに装備されている30ミリ機銃2門で銃弾を撃ち込み、その後もロケッ燃料による上昇と下降を繰り返し、最後に燃料が尽きると、グライダーのように滑空して、最後には胴体から出した橇で着地するというものである。橇で降りるのは、機体の重量を減らしたいために、飛び立つとすぐにゴムタイヤを履いた車輪を捨ててしまうからである。性能は良いかもしれないが、大量に燃料を食い、また操縦するのも職人技を必要とするような戦闘機であった。

 

<秋水の飛び方>

 

 

それは、当初1945年(昭和20年)9月までに数千機作る計画であったが、計画そのものの無謀さもさることながら、如何に戦争末期の日本が最後の切り札として、このロケット戦闘機に賭けていたかがよく分かる。

 

<ロケット戦闘機 秋水>

 

三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料館にて、許可を得て撮影(撮影:森ーCHAN)

 

高高度を飛ぶ、B29などに接敵し、それを撃墜するためには、自らも同じ高さまで上昇しなければならない。それを実現するのが、ロケットエンジンを搭載したロケット戦闘機であると、軍首脳は目をつけた訳だ。また、石油の備蓄も底をつきかけており、石油に頼らない、自製できる燃料というのも魅力であった。

この秋水の特性、諸元は、以下の通りである。

 

特性・諸元

機体

無尾翼 主翼三角翼

全幅: 9.3m

全長: 5.7m

全高: 2.5m

翼面積: 19.60

翼面荷重: (離陸時) 209kg/屐  蔽緡時) 107kg/屐

全備重量: (離陸時) 3,950kg      (着陸時) 1,900kg 

自重:                     1,427kg

甲液重量:                1,550kg

乙液重量:                  468kg

エンジン

ヴェルダー ロケットエンジン HWK 509

自重:            100kg

推力:     最大       1,500kg           最小      100kg

甲液(T液): 過酸化水素(濃度80%)

乙液(C液); 水化ヒドラジン+メタノール、水 添加剤

「続・陸軍航空の鎮魂」より

 

ロケット燃料の甲液は、過酸化水素の濃度80%の水溶液に安定剤として少量の8-オキシキノリン、ピロ燐酸ソーダが混ぜられたもの。乙液は、水化ヒドラジン30%にメタノール57%、水13%の溶液に、銅シアン化カリを1リッターにつき2.5グラムを混入したものである。秋水は、使用するロケット燃料の甲液と乙液の反応によって発生するエネルギーにより大きな推力を得るが、そのロケットエンジンは装置自体を比較的小型にまとめることができるという利点を有していた。

エンジンは、陸軍では特呂二号、海軍ではKR10と呼ばれ、全長約2,500mm、全幅約900mm、全高約600mm、最大推力1,500kg、タービン回転数は毎分14,500回転というもので、甲液と乙液は噴射機に来るまでには、当然のことながら混じり合わないように完全に遮断され、甲液・乙液燃料が各々円滑に供給され、かつ噴射が最適にされるように配管や弁など細部にわたって工夫された。このエンジンを短期間に製造することは、技術陣の焦眉の課題であった。

 

<秋水のロケットエンジン>

 

 

 三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料館にて、許可を得て撮影(撮影:森ーCHAN)

 

表にあるように、離陸と着陸で重量が2トンも違うのは、ロケット燃料をそれだけ消費するということであり、また特に過酸化水素80%の甲液液体燃料については、生産することも保管することも難問山積みの厄介な代物であった。

 

最初、燃料を自製できることから、軍首脳はこのロケット戦闘機に飛びついたのであるが、ロケット燃料の生産、保管についての難問に早くも突き当たることになった。過酸化水素は江戸川化学(現・三菱ガス化学)の山北工場で医療用のオキシフル原料などとして生産されていたが、濃度は30%がせいぜいで、80%もの高濃度のものは、日本では生産したことがなかった。おまけに、高濃度の過酸化水素は、強酸性で鉄などの金属類を溶かし、不純物が入ったりすると爆発するという扱いに困るものであった。

 

ロケット戦闘機の設計・開発も、資料不足で困難であったが、燃料についても、そのような難題があったのである。

 

  秋水に割り当てられた柏陸軍飛行場と周辺戦跡

 

  その秋水用の飛行場には、柏陸軍飛行場が割り当てられた。それは柏が首都東京に近く、もともと柏飛行場が「首都防衛」を目的とした立地であること、実際B29が首都東京を攻撃する際の経路の一つに、柏がなっていたからである。

柏飛行場は、東京に近いだけでなく、1,500m(後に2,000mに拡張)の舗装された滑走路を持つ飛行場であり、銚子沖などから東京に向って侵入してくるB29を邀撃するのに絶好の位置にあった。

そういう立地条件もあって、陸軍は柏飛行場を秋水の基地とすることを考え、陸軍の航空審査部の関係者、荒蒔義次少佐以下が近くの寺院などに宿営し、秋水実験隊の拠点が作られていた。

また、過酸化水素などロケット燃料の貯蔵庫として、地下燃料庫が建設されたが、最初は十余二の飛行場に近い場所に主に実験飛行用、後に1945年(昭和20年)春ごろにはリスク分散のため、柏飛行場から東へ2Kmもはなれた花野井や大室などの地に地下燃料庫が建設された。

 

<柏飛行場の概略図>

 

 

以下の写真は、花野井、大室の地下燃料庫の分布を示しているが、写真は上が北、柏市花野井の花野井交番付近を写した国土交通省提供の航空写真(1979年:地形図番号NI-54-25-1の解像度400dpiのもの)にマーク・文字入れを行った。

 

 <花野井、大室の地下燃料庫跡分布>

 

 

 

なお、湾曲する低地を挟んで写真右側(東側)の花野井に秋水燃料の甲液(過酸化水素)、写真左側(西側)の大室に乙液(水化ヒドラジン)のための燃料庫が設置されたというが、現在は花野井の遺構は残ってるが、大室については住宅建設に伴い、地表面上の遺構は残っていない。

この地下燃料庫の建設の指揮は森川陸軍少尉がとり、工事は突貫作業で進められ、多くの朝鮮人労務者が動員された。

 

<花野井交番裏の秋水地下燃料庫跡>

 

撮影:染谷たけし

 

それらが実現されれば、柏は戦争末期における日本の一大軍事拠点となった筈であるが、飛行場などの建設は未完に終わった。しかし、秋水の地下燃料貯蔵庫址は現存している。花野井、大室に台地端の崖を利用した横穴式のコンクリート製の地下壕が作られた。その地下燃料貯蔵庫は両端に出入口がある、ちょうど昔の黒電話の受話器のような形をしていて、長さは30mほどで中は中空になっている。断面はかまぼこ型で高さ2m以上、幅は3mから4mもあった。地下壕の出入口は台地端の斜面などにあり、小さなタンク車が中まで入ることができるような構造になっていた。この奇妙な形は、貯蔵時に出るガスを逃すように風通しを良くするためで、喚起孔もついている。

 

<畑の中に突き出たヒューム管>

 

 

 

花野井、大室以外に、十余二(現・正連寺)にも台地上にヒューム管を埋め込む形の地下燃料貯蔵庫が作られた。

十余二(現・正連寺)の秋水地下燃料貯蔵庫も、現存しており、後でその発見の経緯などを述べる。

 

現在、確認できるのは、花野井では花野井交番の近くのコンクリートの胴体が露出している地下燃料貯蔵庫のほか、台地端の出入り口が3か所、畑にヒューム管が突き出している場所である。

 

<塞がれた地下燃料庫の開口部>

 

撮影:染谷たけし

 

<露出した地下燃料庫のコンクリート>

 

撮影:染谷たけし

 

住宅地の片隅、台地の縁辺に残っている姿は異様だが、貴重な戦争遺跡である。なお、台地端にある燃料貯蔵庫跡には、終戦直後引揚者など人が住んでいたとのことで、戦後になって近所の子供が中に入ると人がいて怒られたという話もある。その後、農家の納屋などとして使用されたが、最近は子供が遊ぶと危険なため、入口や換気孔を塞がれている。 

 

<台地縁辺の燃料庫出入口>

 

撮影:森ーCHAN

 

 柏陸軍飛行場跡附近で発見された秋水地下燃料庫

 

 柏飛行場は、1,500mの滑走路と周辺設備を保有し、太平洋戦争末期に開発されたロケット戦闘機「秋水」の飛行基地も、この柏飛行場が割り当てられた。その際の実施部隊としては、飛行第七○戦隊が想定されており、1945年(昭和20年)7月には操縦者全員の身体検査も行われたが、実現しなかった。

当飛行場は、戦争末期にロケット戦闘機秋水の飛行場とされようとしていたのに、大きな特徴があり、近隣の法栄寺は荒蒔義次少佐ら航空審査部の秋水関係者が宿舎として使用、秋水実験隊が活動した。

 

 <十余二(現・正連寺)にある秋水地下燃料庫#1の内部>

 

 

 撮影:森−CHAN

 

<十余二(現・正連寺)にある秋水地下燃料庫#5の内部>

 

撮影:染谷たけし

 

また秋水の地下燃料庫が飛行場東側に作られ、実際に使用された。それはL字形をしており、地上に径2mほどのヒューム管(長さ2.5m)を8つ連結し、20mほどとしたものと直角に7から8mほどの長さにヒューム管を接合したものと見られ、覆土していたために長年存在が分からなかったが、手賀の湖と台地の歴史を考える会の調査で、つい最近5基発見された(現在、周辺は学校や道路建設などの県の開発地域で立ち入り禁止である)。

これは、地上を少し掘り下げ直接ヒューム管を置き、接合したあとに更にコンクリートで表面を覆い、その上に土を被せて擬装している。喚起孔は燃料庫の端部についているのみのようである。

 

一方、前述の通り、花野井と大室にも秋水の地下燃料庫が建設され、花野井の崖中段に開口のある3つほどと、花野井交番の裏手にあるコンクリート剥き出しの燃料庫が現存しているが、こちらは本格運用しようとしたものらしく、十余二(正連寺)の地下燃料庫は実験用に建設されたもののようである。

 

それにしても、手賀の湖と台地の歴史を考える会の発見した、秋水燃料庫は秋水実験隊などを含め、秋水を柏飛行場に配備しようとしていた軍の動向を裏付け、戦争末期に如何に不可解かつ無謀な方向に日本が向っていたかの歴史的な教訓にもなろう。 

 

 <柏飛行場跡附近での地下燃料庫発見時の様子>

 

 

 撮影:森−CHAN

 

ところで、2010年7月27日に行なわれた同会のプレス発表には、海軍秋水隊に所属した海軍予備学生出身の元中尉、鈴木晴利氏も駆けつけた。鈴木晴利元中尉は、戦時中元山海軍航空隊から移って、茨城県の百里原海軍航空隊で秋水の搭乗員としての訓練(滑空訓練が主で射撃訓練もあった)を1年ほど受け、1945年(昭和20年)7月7日の横須賀追浜で実施された犬塚大尉によるテスト飛行にもデータ採取のために立ち会ったという。

秋水研究家の柴田一哉氏が、鈴木晴利氏が比較的近くにお住いであることを知り、プレス発表にきてもらったようであるが、陸軍飛行場跡の近くの秋水地下燃料庫跡に海軍のそれも16名の秋水隊の一員が同会と役所以外の人で初めて訪れたというのは、不思議なめぐり合わせである。

 

<海軍秋水隊出身の鈴木元中尉(右側は当時の飛行服姿の同氏)>

 

 

 左側の写真の撮影:森−CHAN

 

 なお、同会が秋水地下燃料庫を発見したのは、最初飛行場跡周辺の遺構として掩体壕跡を調査している際に、自然の会の方に案内されて掩体壕といわれる二つの土盛りがあるのを知り、戦後の航空写真と照合したり、終戦直後のことを知るTさんという元陸軍少尉の方や秋水実験隊の方などに聞き取りをおこなって、よくよく調べたところ、どうも秋水地下燃料庫らしいと推測したのが発端である。その後、何回か踏査の結果、あるマウンドの地上に開いた隙間から、地下燃料庫を実際に確認したものである。

 

 <十余二(現・正連寺)にある秋水地下燃料庫#4の内部>

 

 

 撮影:森−CHAN

 

プレス発表後、2010年8月8日に行われた手賀の湖と台地の歴史を考える会主催の現地見学会には、定員の90名いっぱいの人が参加した。会代表である國學院大學の上山和雄教授の挨拶と説明に続き、麗澤大学の櫻井良樹教授が柏飛行場と秋水に関する説明をおこなって、参加者は3班に分かれて見学した。

事前説明会のあったのは、柏の葉の公園センターの会議室で、そこから地下燃料庫跡のある場所までは、柏の葉公園の前の道路を渡り、数百メートル歩いていった。俗に、その道路が柏飛行場の滑走路のようにいわれているが、実際には道路の北の端がかろうじて重なっている程度で、滑走路は道路東側の科学警察研究所や関税中央分析所、税関研修所といった官庁の建物がある場所の上を通っていた。現地は、千葉県が管理している公園や小学校などの予定地であり、戦後の一時期はゴルフ場だった場所である。しかし、今はゴルフ場の面影はなく、草木の茂った荒地のような場所になっている。

 

<見学会にさきだつ説明会の様子>

 

撮影:染谷たけし

 

8月8日の見学会では、2つの地下燃料庫の見学であったが、現地での説明は、秋水研究家の柴田さんが担当し、実際に秋水地下燃料庫のある4号丘といわれるマウンドと5号丘といわれるマウンドに実際に見学者がのぼり、説明を聞いた。

比較的大きな5号丘の隙間の穴からカメラで内部を写す参加者も多く、見学会は盛況であった。また、会のほうでは、5号丘の隙間の穴からカメラを差し込んで内部の様子をPCで見せた。

 

<4号丘といわれるマウンド>

 

撮影:染谷たけし

 

<5号丘の隙間の穴からカメラを差し込む>

 

撮影:森−CHAN

 

なお、当日の見学会には、東京や千葉県内でも房総の南の方の人の参加もあり、見学の後に行われた質疑応答でも、かなり専門的な質問がなされ、会のほうでも得意分野に応じて数人で応答していた。

わが取材班は、見学会の後、別の参加者とともに、柏飛行場関連遺構を見て、さらに印西市の高射砲陣地跡にむかったのであった。

 

<秋水燃料を保管していたという硫酸瓶>

 

撮影:染谷たけし

 

 近隣に残る戦争遺跡

 

柏飛行場の附属設備としては、陸軍航空廠柏分廠が本部建物や倉庫などが残存し、また柏分廠に近い流山市駒木台には、柏分廠以外にも柏航空観測所があった。現在は駒木台福祉会館などとなり、遺構がなくなってしまったが、1940年(昭和15年)11月着工で、二階建ての建物には常時30人ほどの観測員がいて軍用機の発着に欠かせない気象観測を行っていた。駒木台福祉会館は、児童館が併設されており、近隣のもう一つの施設との間に築山状のものがあるが、後につくったものらしい。福祉会館の職員に聞いても軍の施設の遺構はないというし、周辺歩いてみたが、残骸も見当たらなかった。ただ八幡神社脇を通って福祉会館にいたる道筋が直線的でいかにも軍が観測所のためにつくったような道であった。

 

<柏分廠跡の倉庫に掲げられた「圧搾空気室」の札>

 

撮影:染谷たけし

 

 <法栄寺の平和観音像の台座>

 

 

撮影:森−CHAN

 

柏飛行場は、柏の根戸高野台の高射砲陣地とともに、首都防衛の拠点となったのだが、終戦間際の1945年(昭和20年)頃になると、昼夜を問わず空襲に際しては戦闘機が迎撃に飛び立って行き、そのまま帰還しない機も少なくなかったという。

 

戦争の犠牲になったのは、飛行場にいた兵士だけではない。この飛行場近隣の集落からも、出征し、戦死した若者たちがいた。柏分廠の西側道路沿いにある八幡神社に「顕彰碑」と刻した駒木台の戦没者慰霊碑がある。そして、ちょうどその八幡神社の裏手に柏航空観測所があった。

この碑には戦没者九名の戦没年月日、戦死した場所が名前とともに刻まれている。うち六名が1945年の戦死で、さらに五名はフィリピンでなくなっていることが分かる。

八幡神社の道路を挟んだ向かいにある日蓮宗の法栄寺にも、平和観音像というものが境内にあり、その台座には戦没者の法名と俗名が刻まれている。その法号は日蓮宗独特の「日」ではじまるものが多い。実は、この法栄寺は終戦近く陸海軍がロケット戦闘機秋水の開発をおこなっていた頃、陸軍が柏飛行場近くに操縦要員などを駐留させていたときの本部が置かれた場所でもある。陸軍航空本部審査部にいて、当時特兵隊隊長として秋水の操縦訓練を担当していた荒薪義次元少佐は、秋水の操縦訓練のために柏に駐留していたが、本部は法栄寺で、「そこに、木村(秀政)教授、パイロット(将校)、連絡係などがいた。木村教授は柏で機体の三角翼のことなどについて研究していた。」(『柏に残された地下壕の謎』小野英夫、川畑光明)と語っていたそうだ。 

 

また、別の頁で詳述しているが、柏飛行場周辺には掩体壕が6基残っているのが確認できている。いずれも無蓋掩体壕で、土でできたもの。ただ、一部や開発地域にかかっており、全部でなくとも今後保存される(なくなるものについては発掘調査も)ことが望まれる。

 

<国道16号線を越えた香取神社附近の掩体壕>

 

 撮影:染谷たけし

 

 

 (付記)秋水用の呂号兵器を作った町、愛知県常滑市

 

前にも述べたが、ロケット燃料の甲液、過酸化水素水は扱い難く、通常の金属容器を溶かしてしまう、不純物が入ると爆発の危険性もあるという代物であった。特にその製造を行う濃縮過酸化水素製造装置をどんな素材でつくるか、陸海軍の技術陣の頭を悩ませたが、結局行き着いたのが耐酸性の強い陶磁器であった。それをつくるのに、白羽の矢がたったのが、製陶業の会社のなかで湿田対策など農業用の大きな土管製造の技術をもつ伊奈製陶(現在のINAX)であった。伊奈製陶は、常滑市に本社のある会社であるが、ここに1944年(昭和19年)7月下旬、海軍省燃料局より「呂号兵器」を生産するよう、それも短納期でという命令が出た。

 

<常滑市民俗資料館にある呂号甕(撮影:森−CHAN)>

 

 

 

 

「呂号兵器」の「呂」とはロケットのロである。「呂号兵器」とは、正式には呂号乙薬甲液製造装置という。これは、酸やアルカリに最も強い耐酸Т錣髻▲蹈吋奪反篆覆防要な高度の濃縮過酸化水素製造装置に用いるもので、海軍の命令は大量の大小貯蔵槽、反応塔、真空瓶、各種パイプ、蒸留装置等を8月末から11月中頃までに納入せよというものだった。そして、この新兵器は航空機以上の急用品だという。

伊奈製陶は、早速それまでの受注品を全部辞退し、中・小型の貯蔵槽など比較的簡単な物は、地域の中小工場を指導して製造を委託することになった。そうして、1944年(昭和19年)8月頃からは伊奈製陶だけでなく、常滑全体をあげて、本来の陶器生産そっちのけで呂号兵器の生産にシフトすることになった。

 

現在でも、常滑では町のあちこちに「呂号兵器」が残っているという。その辺りは、以下のブログを参照されたし。 

 

「夜霧の古城」 作者:森−CHAN 

夜霧の古城:常滑に呂号甕をたずねて

 

 

 

参考文献:『千葉県の戦争遺跡をあるく』 千葉県歴史教育者協議会 (2004)

       :「柏に残された地下壕の謎」小野英夫 川畑光明 / 『柏市史』 

       『歴史読本 日本陸軍機械化部隊総覧』 新人物往来社 (1991) 

              『歴史アルバム かしわ』  柏市市史編さん委員会  (1984) 

                                      ほか

     

 

 

 

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