印旛陸軍飛行場

印西市に残る飛行場跡 

  

 逓信省の航空機乗員養成所から出発した印旛飛行場

 

かつて、印旛飛行場のあった印西市草深(そうふけ)地区は、その草深という名前の通り、草深いところで、「六十町歩原」といわれる野原の広がる場所であった。住民は農業と副業として林業を営んで生活し、わずかに「惣深竹」という質のよい篠竹が名物であった。1935年(昭和10年)頃に、木下(きおろし)〜船橋間のバスが開通したときも、一歩草深にはいると、とたんに悪路になったというほどの田舎であった。

 

この広大な草深野をどうしようかというのは、地元の人々の懸案事項であったが、1937年(昭和12年)には船穂、木下、大森、本埜、宗像などの近隣町村長の会合で草深野の効果的な活用方法について度々話し合われ、草深を飛行場にしようと議論がまとまった。

 

一方、軍・民間ともに航空機の乗員を養成することは、第一次世界大戦を経て、航空機の重要性が認識されて以降、中国での戦線拡大にともなって、喫緊の課題になっていた。逓信省航空局は、その航空機乗員を養成する養成所を各地に設置しようとしていた。全国十五ヶ所の養成所の一つが印旛(草深)におかれたのである。

 

逓信省航空局が、航空機乗員養成所の設立に着手したのは、1937年(昭和12年)であるが、翌年には仙台、米子に養成所が開設された。印旛では、逓信省航空局による測量に続き、1938年(昭和13年)には土地の買収と山林の伐採が始まり、滑走路の整地、道路の新設、諸設備の建設など、周辺の住民や学徒も動員して、徐々に工事は進んでいった。1940年(昭和15年)の9月には飛行場の一部が使用できるようになり、翌1941年(昭和16年)1月には教官による初飛行が行われ、民間人約30人が交替で搭乗した。

 

飛行場建設は、1942年(昭和17年)6月に完成するが、その完成を待たず、未完成の飛行場に1941年(昭和16年)4月28日、逓信省印旛地方航空機乗員養成所は開所した。養成所には本科生と操縦生という二つのコースがあり、本科生は修業年限が五ヶ年で、国民学校卒業後、旧制中学の普通学科と操縦、航法、通信などの専門技術を習得するもの。操縦生は、旧制中学三年修了後の入所で、一年間の飛行訓練で基本を身につけ、義務として軍の飛行学校で六ヶ月専門分科の訓練を受けるというものであった。

 

<印旛地方航空機乗員養成所の施設概要図>

 

 

地方航空機乗員養成所の志願者案内の図>

 

1942年(昭和17年)9月発行の「寫眞週報」(情報局)より

 

千葉県には松戸に高等航空機乗員養成所が設置されたが、卒業生のうち選抜されたものは、さらに高等航空機乗員養成所の普通科(一年)または普通科から高等科(二年)に進み、より高度な専門教育を受けることができた。いづれにせよ、本科生も操縦生も、卒業時には習得技術によって、航空機操縦士などの資格が与えられた。航空機乗員養成所には、陸軍系と海軍系があったが、千葉県の松戸も印旛も陸軍系で、所長以下の幹部職員は陸軍の軍人であり、教育・訓練は陸軍方式で行われた。卒業生も民間航空への道を望むものが多かったが、太平洋戦争の勃発と戦局の悪化に伴い、陸軍航空隊に配属されるものがほとんどであった。その中からは、草深の出身で、レイテ戦において特攻で戦死した長浜清伍長(死後特進して少尉)のような卒業生も出た。

 

<わずかに石碑が飛行場跡を示す>

 

 

さて、印旛飛行場では、1942年(昭和17年)6月6日にその完成を祝賀して、記念飛行が行われた。

 

養成所の用地は、全体で33万9千坪、約112ha、飛行場は30万3千坪、約100haで、養成所の建物、飛行場などの建設経費は、全部で約192万円であった。

もともと養成所の飛行場としては、滑走路、ピストのほか、建物としては本館、講堂、診療所、武道場、教室、生徒舎(のち兵舎)、食堂、木工、機械、整備、発動機などの工場、試運転場、格納庫などがあった。この養成所の建物・施設、すなわち本館、講堂などの全体の面積は、約4千5百坪(約1万4千900平米)であった。

 

当初、飛行場には滑走路というほどのものはなく、ただ草むらをならしただけのものであった。格納庫や飛行指揮所といった設備はあり、飛行訓練のときには指揮所前に、紅白の吹き流しを掲げて風向、風速を示した。この印旛の地で、生徒は日夜訓練に励んだ。しかし、養成所は軍隊とは違い、多少余裕はあり、武運長久を願っての社寺参拝、日曜外出や春・夏・冬の帰省休暇など、生徒の羽を伸ばす機会もいろいろあった。

 

印旛航空機乗員養成所で使用された飛行機は、陸軍の九五式三型初歩練習機、九五式一型中間練習機、九九式高等練習機の三機種であった。そうした練習機で、養成所のスパルタ教育が行われたのである。

 

 

印旛航空機乗員養成所本部跡>

 

*ここも開発の対象になっているが、中央にうつっている大きな椎の木の周辺のみ、公園化される模様。

 

1943年(昭和18年)になると、太平洋戦争の戦局は厳しくなり、首都東京や京浜工業地帯の防空が緊急課題となってきた。そのため、陸軍は首都圏の既設の飛行場を「首都防衛」の飛行場とすべく動き、印旛飛行場についても各種工事を行って、軍用に転化していった。1943年(昭和18年)10月頃、軍の飛行場拡張工事が始まり、戦闘機の離着陸には滑走路も1,800m以上必要とのことで、約2kmの滑走路が三面設けられた。その工事には朝鮮人労務者が多数動員され、そのため近隣から宿泊用に布団が供出させられた。

 

戦局が暗転し、敗色濃厚となった太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)11月には、陸軍飛行第二三戦隊などが進出し、印旛飛行場は事実上陸軍の飛行場となった。陸軍飛行戦隊が入り、戦隊の本部や射撃場が作られ、また空襲に備えて誘導路と掩体壕、待避壕を拡充していったようである。

 

一方、印旛地方航空機乗員養成所は次第に有名無実の存在となり、生徒は日々飛行場の整備、工事、草刈りなどにかりだされ、一部の生徒は米子や新潟に転出、群馬県伊香保への疎開も行われた。

 

<従来考えられていた印旛飛行場の概略図>

 

 

 

なお、上記の飛行場の滑走路の位置は、最近の研究では、従来言われていたのと実際の位置はかなり異なり、特に東西にのびる滑走路は北西の現在のジョイフル本田のある場所から南東にのびていたことが分かっている。

その新しい研究成果を加味して、飛行場概要を図示すると、以下のようになる。

 

<新しく判明した印旛飛行場の概要図>

 

 

この印旛飛行場は、戦後になると跡地は大陸などからの引揚者、旧軍人によって開拓され、また最近ではニュータウン建設によって、ほとんど跡形もなく、当地に飛行場があったことは、わずかに公園のなかの石碑によって示されている。

無蓋掩体壕は、1982年(昭和57年)の調査では36基が確認されるなど、かなり多かったのであるが、今はニュータウン建設に伴い、残るのは数基のみとなった。印西市では、残った掩体壕の数基を保存すべく、関係団体と協議中である。

 

表: 印旛陸軍飛行場の概要

 

項目

内容

現状

面積

約100万平米

学校敷地、ニュータウンの住宅地、農地等

滑走路

約2,000m、未舗装のもの3本

現存せず。ニュータウンの住宅街がその上に建っている。

誘導路

北西、北東に飛行場を取り巻くように存在した。

最近まで石道台から本埜村にかけて残存していたが、ごく一部の痕跡のみ。

掩体壕

誘導路沿いに無蓋掩体壕が多数あった。1982年(昭和57年)の調査では36基が確認されている。

ほとんどが消失。ただ、東の原に1基良好に現存。その他数基ある。

待避壕、防空壕等

印養、飛行第二三戦隊などの文書にはあるが、場所等未詳。

現在の有無、場所不明

格納庫

飛行場西北部にあった。

現存せず。

建物(付属施設を含む)

戦隊本部、兵舎、医務室、印旛地方航空機乗員養成所の施設、グラウンドほか

現存せず。

航空観測所

対空高角砲、機銃陣地

不明

不明

その他関連施設等

射撃場(試射場)が存在した。

原青年館の裏手に射撃場(試射場)の土手の一部が残る。

  掩体壕についての補足

なお、掩体壕で現存するものは、現在研究者などによって調査されているが、東の原にある1基については、幅約30m、高さ3mの馬蹄形をなしている。明確かつほぼ完全に遺構が残るのは、公にはこの1基であるが、近隣の藪の中などにも、若干欠けた部分のある程度で比較的良好な保存状態の遺構がある。また、残欠程度のものが周辺に残っている。

 

<住宅地となった現在の印旛飛行場跡>

 

 

   藤田戦隊長など、印旛飛行場空襲の犠牲者たち

 

 陸軍飛行第二三戦隊は、第一〇飛行師団(略称:天翔)隷下で、印旛での編成当初、一式戦闘機・隼、二式単座戦闘機・鐘馗で編成された20機ほどの戦闘機を保有していたが、11月27に一個中隊12機を硫黄島に派遣、翌1945年(昭和20年)1月17日にも12機を再派し、新設部隊としては手痛い人員、器材の損失を蒙った。

 

さらに、1945年(昭和20年)2月16,17日の米軍機動部隊から発したグラマンヘルキャット、コルセアなど数百機は、関東の各飛行場を急襲し、印旛飛行場にも来襲、これに対し、飛行第二三戦隊は邀撃したものの、藤田重郎戦隊長(陸軍少佐)など5名が戦死した。

 

すなわち、飛行第二三戦隊の前任の戦隊長藤田重郎少佐は、その戦闘で敵機を迎撃しようとしたが、他の戦隊員とともに印旛飛行場上空で戦死した。実は亡くなった藤田重郎少佐は13機の撃墜記録をもつ歴戦の勇者であったが、隼に乗り、グラマンの編隊にむかって単機で突入して邀撃したが、空しいこととなった。

 

他にも両日の戦闘で少尉3名、准尉1名、軍曹1名が戦死。飛行第二三戦隊の保有する戦闘機は二式単戦、一式祁拭僻察砲合わせて25機程度であったのが、2月18日の出動可能機はわずかに一機のみとなった。

 

数日後、吉田師団長の部隊視察があったが、吉田師団長は「ご苦労さんでした」と丁寧に挨拶をしたが、「鬼の喜八郎」の面影はなく、元気のない様子であったという。そのあと、吉田師団長は更迭され、パイロット出身の近藤兼利中将に交代した。

 

なお、その藤田少佐の未亡人は、葬式を済ませ、諸々の始末をした後に、亡き夫の後を追って自決したという。

 

今や、ニュータウンとなり、ほとんど飛行場の面影はないが、印旛飛行場という小さな飛行場にも伝えれねばならない話がある。

 

藤田戦隊長の戦死により、次の戦隊長は谷口正義陸軍少佐となり、同じころ師団の方でも師団長が戦闘パイロット出身の近藤兼利陸軍中将となったが、迎撃要領が操縦士温存のため、P-51など戦闘機・爆撃機連合部隊の迎撃はおこなわず、B‐29など爆撃機のみの侵攻に対して行うように改められた。

 

また、終戦直前の7月4日のP-51の来襲で、印旛地方航空機乗員養成所も銃爆撃を受け、7名の本科生がなくなった。

 

 <陸軍 一式戦闘機 隼>

 

 

 

 掩体壕などの遺構について

 

前述のように、印旛飛行場に残る遺構といえば、もはや掩体壕くらいしかない。

では、掩体壕とはどのようなものか。掩体壕は、上にコンクリートなどで固定的な屋根をつけて、ある程度直接的な銃撃、砲撃などに耐え、間接的な爆撃の被害から守るようにした有蓋掩体壕と、周囲を土手で覆い、固定的な屋根がなく、木などで覆って飛行機を隠し、間接的な銃爆撃の被害からのみ救済できる無蓋掩体壕と大きく分けられる。印西にあるのは、無蓋掩体壕のタイプである。形状も、1機のみ隠蔽する馬蹄形のものや箱形のもの、2機まとめて隠蔽するE字形のものがあるが、印西は馬蹄形のものが圧倒的に多い。

掩体壕の幅は約30m、取り巻く土手は約3mと結構高い。通常、そこまで飛行機を運んでくるための誘導路はついているが、飛行場の隅などにあるものはないこともある。周囲はややへこんでいて、まわりから土を取り、土手として積み上げたことが分かっている。

 

掩体壕の図解>

 

 

 1982年(昭和57年)に当時の印西町石造物調査会が、当地の掩体壕の位置、形状などを調査したが、その時には36基確認されている。

しかし、その後ニュータウンの建設など、開発が進むにつれて、掩体壕は破壊され、消滅したものが多い。わずかに東の原の調整池周辺の県所有地に数基残っているが、風前の灯のように思われる。印西市では、その明確な遺構1基を保存する意向であるが、県の開発事業地にあるため、今後の折衝に期待したい。

 

<現存する東の原の掩体壕>

 

 

 

 <東の原にある1/3程度にまで破壊された掩体壕の残欠>

 

 

なお、掩体壕は千葉ニュータウンの開発区域にたまたま数基残っているのだが、それから外れていると思われる近隣の藪のなかにも2基ほど残っている。藪の中の掩体壕で、作場道から近い場所にある、以下の写真の1基については、詳細に計測したわけでないが、高さ1.5mから2mほどの土手が馬蹄型にめぐり、幅は20数mとやや小ぶりである。土手の外側は、土手を築くための土を取ったものか、やや低くなっている。掩体壕の内側は土が堆積しているが、ほぼ平坦である。

 

<藪にある掩体壕>

 

,郎郛貽散瓩から撮影、◆↓は土手の上から撮影

 

ところで、印旛飛行場の掩体壕について、どういう背景で掩体壕が三十以上も作られたのかを少し考えてみよう。 

 印旛飛行場を根拠にした陸軍飛行第二三戦隊の戦隊長(谷口正義少佐)が戦後書いた記録では、 

「戦爆連合部隊の来襲に際しては各飛行場の誘導路に分散遮蔽して退避秘匿することとなった。この準備のため飛大(注:飛行場大隊のこと)は、飛行場周辺の民間の協力を得て、民間の畑地、竹林、森林等を開設して前述の分散用誘導路と遮蔽各個掩体を作った」

 とある。

上記は、陸軍飛行第23戦隊印旛会の『飛行第23戦隊 想い出の記』のなかにある谷口正義元少佐の「飛行第二十三戦隊概史」のなかにある文章である。その『想い出の記』には元隊員たちやゆかりのある料理旅館のおかみの記事まで載っており、隊員の訓練や実戦での想い出などがいろいろ書かれていて、それはそれで面白いのであるが、さすがに掩体壕の話となると、上記谷口戦隊長の記事ともう一つの記事に多少触れられている程度であった。

ちなみに飛行場大隊は戦隊とは別に、飛行場の警備や施設や日常運営に関わる業務を行うもので、師団の下に飛行場ごとにおかれたものである。印旛飛行場については、柏で編成された第七飛行場大隊であった。

戦隊は、必ずしも一つの戦隊が一つの飛行場に駐屯するわけではないが、飛行場大隊は地上勤務で上記のような仕事をしていた。

米軍の戦闘機・爆撃機連合部隊の来襲に際しては、飛行機を飛行場の誘導路に分散遮蔽して、掩体壕に退避、秘匿することになったのである。その誘導路や掩体壕の敷設にあたっては、飛行場大隊が主体で行ったが、また周辺住民などが動員された。

しかし、印旛飛行場の掩体壕については、1945年(昭和20年)3月に陸軍飛行第二三戦隊の上部の第一〇飛行師団(柏の第七〇戦隊の師団でもある)の師団長が吉田喜八郎少将から近藤兼利中将に交代し、新師団長の近藤中将の方針で、空襲時の飛行機および搭乗員の減耗を防止するため、あえて迎撃せず、飛行機を誘導路に分散、掩体に秘匿するということになり、掩体壕がさかんに作られるようになったということが分かった。

もちろん、陸軍全体の方針ということもあるが、前述の藤田前戦隊長の戦死に代表される空襲被害について、ようやく空襲の脅威を軽視していたことの反省をおこなったことにもとづいたものであったと考えられる。

なお、掩体壕以外には、原青年館の裏に射撃場跡の土手が一部残っているが、もとは約90m四方のコの字形に土手がめぐっていた。

誘導路も終戦後数年の航空写真には、はっきりとうつっているのだが、今は宅地開発などで、ほとんどなくなったようである。

 

<誘導路の痕跡(石道台)>

 

 

  <原青年館の裏手にある射撃場跡>

 

 

 現存する掩体壕などの場所などについて、そうふけふれあいの里の職員の方、近隣農家の方にご教示いただきました。

 

 

参考文献:

       『飛行第23戦隊 想い出の記』 陸軍飛行第23戦隊印旛会

      『印旛の空』 印養五期生回想集出版委員会 (1996)

       『草深野開拓』 山本忠良著 崙書房 (1979) 

              『印西町の歴史 第3巻』 「消えゆく掩体壕」  (1987)  ほか

 

 

 

 

 リンク  

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