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鉄道連隊演習線

千葉県に残る鉄道連隊の遺構
 
 鉄道連隊演習線の概要

 

千葉県内に広範囲に残る、陸軍鉄道連隊の戦争遺跡について、やはり鉄道連隊演習線跡を抜きに語ることはできない。

 

陸軍鉄道連隊は、工兵から派生した鉄道兵の集団であり、それは近代戦での兵員物資の輸送などインフラ面を担うものであった。北清事変での鉄道大隊の活躍を期に、近代戦での鉄道利用の有効性について、明治政府は確認し、日露戦役後は、鉄道大隊が鉄道連隊へ昇格した。

 

すでに日露戦争中には、鉄道大隊は朝鮮、旧満州での鉄道建設にあたった。その後、より専門性を高めるために、演習線を敷設することになり、大きく分けて、\虱佞ら習志野(津田沼)、津田沼から松戸の演習線が敷設されることになった。

実際に、千葉から津田沼の演習線は1911年(明治44年)に開通、同時期に作草部から四街道まで演習線が延びた。作草部〜四街道の下志津支線は下志津原の砲兵の演習場などを背景に、軍の街になろうとしていた四街道を象徴するような演習線といえる。

 

<鉄道を敷設する鉄道第一連隊>

 

 

 

さらに、1932年(昭和7年)には、鉄道第二連隊によって、津田沼から松戸まで演習線が敷かれ、それは戦後の新京成電鉄の路線の原型になっている。

 

演習線の計画段階からの歴史をたどれば、既に1906年(明治39年)には習志野に鉄道隊派遣隊が置かれて、津田沼と高津廠舎を結ぶ軍用線が敷設されることが企図された。日露戦争後の1907年(明治40年)10月にはもとの鉄道大隊が鉄道連隊に昇格、中野から転営がなされ、その翌1908年(明治41年)には第二大隊、連隊本部、第一大隊が千葉町椿森に転じ、材料廠は千葉町穴川に設けられ、千葉に連隊本部、第一大隊、第ニ大隊、材料廠、津田沼に第三大隊という配置というように部隊が拡大・整備されると、多くの将兵を教育する必要に迫られ、前記の演習線が敷かれて、各種訓練が行われたわけである。

鉄道兵たちは、平時においても鉄道敷設、架橋など種々の演習にはげみ、駐屯部隊の物資輸送だけでなく、民間鉄道の路線敷設や運転をも行って、技術力の維持に努めた。

 

<千葉市椿森にある鉄道大隊の碑>

 

(碑の裏に北清事変時の北京郊外の鉄道路線図が彫られている)

 

その鉄道連隊の演習線とは、どのようなものであるか。これが実に本格的なものであり、以下の鉄道連隊演習線概要図のように営業運転している国鉄や地方鉄道と伍して路線があり、きちんと駅まであった。

 

<演習線の概要図>

 

 

なお、これらの演習線は、明治の昔から何度も敷設と撤去を繰り返し、ほぼ安定するのは1933年(昭和8年)頃である。

 

  千葉から津田沼までの演習線跡

 

上記の図で、千葉の鉄道第一連隊付近から津田沼にいたる約16.7kmの路線が完成したのは1911年(明治44年)10月のことである。着工は、1907年(明治40年)というから、鉄道連隊が成立した時期と同じである。これは既に敷設されていた津田沼〜高津廠舎間の路線を利用して、さらに千葉にむけて新たに演習線が敷かれたものである。これによって、津田沼の兵営と千葉市椿森にあった鉄道第一連隊兵営とが結ばれることになった。演習線は、基本的には軌間600mmの軽便鉄道で、習志野市HPによれば、これに平行して津田沼から大久保までは106.7センチ幅の軌道も敷設され、場所によってはさらに広い143.5センチの軌道も敷かれたという。この演習線の敷設には、作業の早さ・正確さが要求されたが、そもそも演習線は増強された鉄道連隊の兵士たちの錬成のため、敷設されたものである。

その路線は、現在のJR千葉駅に程近い軍用駅をスタート地点とし、千葉市中央区椿森の鉄道第一連隊跡西側を通り、演習場があった千葉公園一帯から材料廠のあった轟を経由し、国道126号と並行して穴川3丁目交差点から穴川十字路ではなく、その北の陸橋の下を通り、園生、花見川方面へと向かう。

穴川十字路の北側陸橋の手前までは、その道の上には千葉都市モノレールが走っている。かつての演習線の上を、今は近代的なモノレールが走っているのは偶然とはいえ面白い。

 

<演習線跡を通るモノレール>

 

天台駅付近から南西作草部方面をみたところ、木が繁っているのは陸軍歩兵学校跡

 

ちなみに、現存するオランダ積みが美しい煉瓦造りの材料廠の建物の下にも、線路跡が残っている。かつては、10連並んだ孤形アーチに対応して線路が敷かれていたようだが、今は短く切られた線路が2組ほど痕跡をとどめている。往時には、その線路を使って、この材料廠に部材を運んだり、また払出したのであろう。

 

<材料廠の建物の下にも線路跡が残る>

 

 

千葉の穴川からまっすぐ園生、長沼を経て、途中京葉道路をよけるように、多少道路を右へ左へ折れねばならないが、基本的には一本道である。道幅も比較的広く、殆どの人がこれが鉄道連隊の演習線の廃線跡であるとは知らないだろう。

少々脱線するが、殆どの人が「知らないだろう」というのは、もう一つある。モノレールの穴川駅に近いが、園生には園生貝塚というものがあり、その付近は森のような状態になっている。その園生貝塚のある森には土塁があり、これが陸軍の射撃場跡だというのである。よく城跡に軍隊が駐屯することはあるが、貝塚まで軍隊が利用していたとは、あまり知っている人はいないだろう。

 

<穴川の陸橋下を通って直進する>

 

 

園生の海苔などを扱う老舗商店の御主人は、その道が千葉から津田沼までの鉄道連隊の演習線の跡であることをご存知であった。また、若潮国体で道を整備するまでは、演習線の遺構も残っていたと言っていた。

千葉も、この辺りまで来ると、住宅密集地帯ではなくなり、いまでこそマンションなどが建ち並んでいるが、昔はさびしい場所だったように思われる。

園生から、そのまま花見川方面に向かっていけば、大久保、津田沼に至る。

 

<園生付近>

 

 

ところが、当初はその経路を使うと土地の高低差があるため、演習線は広尾十字路の近くで大きく北へとループし、今の柏井浄水場周辺を経由、横戸台のこてはし団地バス停付近で花見川を渡り、今の鷹之台カンツリー倶楽部のゴルフ場がある場所に出て、今の花見川団地を通っていた。

なお、千葉の穴川辺りから道の両端を見ていたが、陸軍境界標石を見つけることができず、ようやく広尾十字路の近くにあったのである。市街化に伴う道の拡張などで、境界標石はすぐになくなるようである。実際、穴川から道幅も広く、交通量も多い現役の道路であり、言われなければ鉄道連隊の廃線跡とは分からないだろう。

広尾十字路にある蕎麦店のご主人は、店の前の道路が演習線跡であることは知っていた。しかし、戦後数十年たってその店の一家が越してきた頃には、線路の痕跡などはなかったという。

 

<広尾十字路>

 

 

広尾十字路から習志野側へ約100mいったあたりに分岐があり、その辺に陸軍境界標石がある。上の写真の道の右側、黒っぽい色のビルの近くの中古車センターの端と分岐した道の両側の塀に白い御影石の境界標石があるのである。その標石のある分岐した道こそが、横戸台までループする当初の演習線跡である。その道は、概ね住宅地となっている場所を通る、比較的広い道であり、廃線跡のイメージからは遠い。

 

<広尾十字路近くの分岐した道沿いにある標石>

 

 

廃線跡は、柏井浄水場に至るまで現在も道路として使用されているが、柏井浄水場は廃線跡の上に建っており、その地点で廃線跡は途切れ、現在の道路は浄水場を迂回している。横戸台のあたりは、新興住宅地で、今はバス通りになっている、その道路を鉄道連隊の汽車が走っていたとは信じられないようであるが、バスの車庫を越えて花見川に差し掛かると、ある程度広い川幅を架橋したところを汽車が走っていくのが目に浮かぶようである。横戸台の緑地の柵をくぐり、狭い階段のついた道をくだると、花見川の河畔に出る。横戸台側には、川に面した台地中段が平坦になっており、架橋されていた痕跡がある。

 

<横戸台の住宅地を通る廃線跡(左)、花見川を演習線が越えた部分(右)>

 

 

 

花見川の対岸は、草木が茂っているが、その向こうは鷹之台カンツリー倶楽部というゴルフ場になっていて、先日行った時には草木の隙間からプレーしている人が見えた。鷹之台カンツリー倶楽部には、廃線の跡はなくなっている。

 

鷹之台カンツリー倶楽部を過ぎてしばらく行くと、現在の花見川団地の場所に出る。花見川団地の中にも、廃線跡が道路になったと思われる道路がある。ただし、そう見えるだけで、痕跡は残っていない。そして、その後、作新台を通って、京成電鉄本線のガードの下を抜ける。

これは、後に広尾十字路付近から八千代市横戸台の方に大きくループすることなく、花見川、作新台に直進できるようになってからも、同じルートで京成線のガード下を抜けて、東習志野の方に出ていたのである。なお、広尾十字路から花見川へ大きな切通し状の坂道を下り、さらに坂をのぼると花見川団地の近くに出る。さらに、その花見川団地脇を通る際に、道の横が団地の駐車場になっているが、その駐車場が廃線らしく見える。

花見川団地を過ぎ、作新台に入った辺りは道幅も広く、道の両側には商店などが建ち並んでいるが、昔はそこにも境界標石があったらしい。

 

<作新台の京成線ガード>

 

 

 さらに、習志野市東習志野から、船橋市三山を抜けるが、ハミングロードという道路は大きく湾曲しており、廃線跡らしい雰囲気がある。船橋市三山から習志野市泉町の陸軍習志野学校跡近くに、いくつか陸軍境界標石が残っている。

以下は、京成大久保駅から東習志野辺りの地図に、赤く陸軍境界標石のありかをプロットしたものである。こうしてみると、船橋市三山にかなり標石が残っているのが分かる。実は、そのハミングロードが実籾街道と交差するあたりには、演習線の三山停車場があった。それで標石も、道の両脇の公園および空き地の両端という大きく離れた場所にあるのだろう。

 

<船橋市三山から京成大久保駅付近の陸軍境界標石の分布>

 

 

習志野市泉町に建ち並ぶ集合住宅とは道路を挟んで向かい側の、大きな五葉松のある家の門前に、境界標石が「陸軍用地」の文字を外に向けてたっている。標石は白御影石の大きなものであるため、他の関係ない標石とは見分けがつくが、この家の前のものは間違いようがない。

 

<ある家の門前の境界標石>

 

 

さらに先をいけば、東金街道とクロスし、大きく道はカーブするが、京成線の線路の北側に沿って、京成大久保駅の駅前に出る。演習線跡はまさに生活道路となり、京成線の線路に沿ってしばらく続く。東金街道とハミングロードがクロスする十字路の北東側角にある駐車場の塀にも、境界標石が2つある。

 

<船橋市三山の境界標石>

 

 このハミングロードの途中、京成大久保駅の駅前の道路やスーパーの横など、唐突に境界標石が存在するが、それがかつての軍用線の遺物であることに気づく人もほとんどいないだろう。京成大久保駅前のある銀行の前の路傍にも、陸軍境界標石があるのに、この間気がついた。今は「ハミングロード」としゃれた名前がついているが、その道も鉄道連隊の演習線が千葉から津田沼にむかって延びていた廃線跡である。戦後は、自衛隊が一時線路を使っていたようだ。

ハミングロードの津田沼寄りの部分にも境界標石はいくつか残っている。

 

<銀行の出入口近くの境界標石>

 

 

 

京成大久保駅前のスーパーを過ぎると、住宅街も途切れ、畑が見えてくる。そのあたりは、朝夕ジョギングをする人や散歩する人がめだち、市民の憩いの場にもなっている。晩秋から冬は椿が咲き、春から初夏にかけてはアジサイや皐月なども咲く。商店街を抜けたあたりの畑の中にも、境界標石がいくつか建っている。大久保駅と京成津田沼駅の間の警察署がある辺りまで、点々と境界標石がある。京成津田沼駅の近くになると、その警察署がある、京成線がJR線とクロスするあたりで、演習線跡は今度はJR線に沿って続くいている。それも、現在は道路になっているが、その道路脇にも境界標石がいくつかあった。

 

<ハミングロードの様子>

 

 

 

現在の新京成電鉄新津田沼駅の周辺、イトーヨーカドーやイオンのショッピングセンター等がある場所は、かつて鉄道第二連隊の材料倉庫などがあったが、現存しない。戦後暫くは京成の工場であったが、数十年前までは鉄道第二連隊材料廠の建物の一部が残っていたようだ。しかし、現在は開発によって、ほとんど面影がない。また、その一角に戦後一時期、千葉工業高校があったが、千葉工業高校も移転した。今は跡地の一部である公園のなかに鉄道連隊で使用された機関車が展示されているので、ようやく鉄道連隊があったことが分る程度である。その公園にある機関車とは、もともと鉄道連隊で使用され、戦後は西武鉄道に払い下げられ、所沢周辺で使用されたという「流転」の機関車、K2型 機関車134号である。

 

 <鉄道連隊で使用されていたK2型機関車>

 

 

 津田沼から松戸の演習線跡

 

これは、約26.5Kmの長さがあり、1932年(昭和7年)には建設されたという。一般的に、今の新京成電鉄の路線は、かつての陸軍鉄道連隊の演習線のうちの松戸線といわれる路線だったと知られている。

実際、津田沼から松戸までの、かつての陸軍鉄道連隊演習線は、今は新京成電鉄になっている部分が多いのだが、厳密には松戸に近い部分、八柱〜常盤平〜五香、初富〜鎌ヶ谷大仏などは、元の演習線とはかなり外れたところを現在の路線が走っている。

常盤平団地のある、常盤平駅についてはほとんど演習線の内側で、だいぶ外れているのではないかと思っていたが、駅の西側は演習線と数十mしか離れていない、ほぼ重なるそうである。常盤平駅の東側から北へのびる、かつての演習線は、熊野神社の横から北へ道とほぼ重なるようにしながら、北端は栗ヶ沢辺りで、その辺では道とならずに、小金原のほうへだいぶ湾曲して、現在の新京成線の五香駅手前、金ヶ作の交差点あたりに戻ってくるイメージである。以前、附近の本屋さんで聞いた話でも、同様であった。実は1947年(昭和22年)に米軍が撮影した航空写真が国土地理院のHPで開示されているが、現在の地図を見比べると、それははっきりとわかり、駅の北側熊野神社の脇の道路を北へほぼまっすぐ行くと、金網フェンスの横の未舗装の細い道となり、かまわず行けば林を抜けて広い道路に出る。

なお、この常盤平駅北側については、別途探訪記と称して記載してある。

そのように、路線が変えられたのは、鎌ヶ谷大仏駅附近も同様で、例の鎌ヶ谷の橋脚跡も新京成電鉄の駅や線路から離れた場所にある。

 

<鉄道第二連隊の兵たち>

 

 

それはあまりにも演習線が曲がりくねってつくられていたために、ショートカットしたのと、松戸付近については駅を市街地に近くするために、工兵学校や三矢小台ではなく、松戸駅に乗り入れさせるために、路線を変えたのである。

沿線を歩いてみると、確かに演習線の名残がうかがえる箇所がいくつかある。しかし、松戸市内は廃線部分を探るのも宅地化されていて難しい。

この辺りは、戦争遺跡を探るものより、廃線を調べることを趣味としている人のほうが、あるいは詳しいかもしれない。

自分が見聞した、かつての陸軍鉄道連隊演習線の名残をいくつかあげてみよう。


 新京成の新津田沼駅、前原駅附近の陸軍境界標石

 

陸軍境界標石は意外に街なかに残っているものだ。それは、思いもしない日常生活で使っている道路脇だったり、銀行のATMコーナーのそばであったり。これは、戦争遺跡というほど、大袈裟なものではないが、確かにその場所に旧軍施設や旧軍用地があったという証拠である。そういうものが、津田沼や津田沼を起点とする新京成線沿線の街角にあるということは、軍郷習志野ならではということかもしれない。

例えば、昔の新京成新津田沼駅があった西友裏の線路沿いにも四本ほどある。

以前、新津田沼駅の近くには、陸軍境界標石が線路際の骨董屋の並びの塀に二本、線路の反対側の道端に一本、骨董屋の南、線路脇の駐車場の塀に二本、自転車置き場の中に一つと合計六本あった。

ところが、最近見ると、線路脇にあったマンションを建て替えており、骨董屋の並びの塀にあった陸軍境界標石二本がなくなっていた。ごく短期間に、何十年もあったものがなくなっていく。

 骨董屋のビルがある踏切のところから前原駅までの手前まで線路脇に小道がある。その線路脇の小道に面して長野土地建物の事務所があるが、そこから前原駅方面までの道沿いに最低三本ある。

 

<駐輪場にある境界標石>

 

 



何十年も前から歩いた道なのに、線路脇の路上にそうしたものがあることに気付かなかった。北側に昔国際製粉の木造の何階建てかの大きな建物があり、西側には小学校のある、その線路脇の道と藤崎台方面からの道が交差するところに踏切があり、四十年ほど前までは有人踏切であった。もっと前は警報器がなかった。

 この踏切には、小生にとって、やるせない思い出がある。実は、この近くで戦後小生も世話になった、スラバヤ沖海戦、ミッドウエー作戦、レイテ沖夜戦などの歴戦の勇士の元海軍大尉K氏が事故死している。あれから、もう四十五年もたつのが信じられない気がする。戦後作家・軍事評論家となり、太宰治のような髪型をしていたが、気さくないい人だった。既に河出書房から本も上梓して、週刊誌に連載も決まった矢先の事故死。潜水艦乗りで数々の戦闘で生き残った人なのに、なぜ戦後になって鉄道事故で死んだのかと話したものである。お葬式には、多くの人が弔問に来ていたが、御親戚や近所の人以外に、仕事関係など様々な人が参列していた。

なくなるまで乗っていた愛車は、水色のスバル。残された奥さんと子供は、その後どうしたのか、しばらくは前の家にいたようだが、今は元の住所には住んでいない。確か、コロという名前だったと思うが、K氏は柴犬を飼っていて、その犬をよく散歩させていた。

小生には、その陸軍境界標石が、陸軍と海軍の違いはあるが、K氏の墓標のように思えた。K氏のご冥福を改めてお祈りする。

 

<元海軍大尉が事故死した踏切近くの陸軍境界標石> 

 

 

 

前原駅近くでは、駅から見える塀に埋め込まれて一本、また附近の畑の中、線路沿いに三本並び、ほかに一本やや奥まった前原の寺、道入庵に近いところにあり、都合五本あることになる。

新京成線になった鉄道連隊演習線関係のものでは、他に三咲駅周辺、初富駅周辺、常盤平駅北の住宅地、新八柱駅周辺などに陸軍境界標石がかたまってある場所がある。

 

塀に埋め込まれた陸軍境界標石>

 

 

 

鎌ヶ谷の橋脚跡

 

これは、土地の高低があるようなところで、勾配差を緩和するために橋脚をつくって線路を通す架橋訓練を行い、それを演習線に組み込んだものだそうだ。架橋演習は、前出の写真のように、江戸川などでよく行われていたが、工兵の面目躍如たるもので、千葉市内の演習場跡にも少し小さいが訓練用の橋脚が残る。

同じような演習は、鎌ヶ谷でも行われた。そして、その際に架橋された場所には、現在も頑丈なコンクリート製の橋脚跡が残る。

 

鎌ヶ谷での架橋演習は、『鎌ヶ谷市史資料集17』にある鉄道第二連隊の元兵士であった飯島豊氏が1998年に語った話では「当時の鎌ヶ谷の橋梁です。記憶では、最初下は川かと思いましたが、水は流れていなかったです。確か窪地でした。そういう地層の所へ、訓練を兼ねて橋を架けたんじゃないかと思います。木橋でしたね。」とあり、同書の図版では1931年(昭和6年)頃のその鎌ヶ谷橋梁の木橋の写真が掲載されている。

 

つまり、演習で木橋を架けた後、同じ場所に本格的な橋脚を設置し、橋を掛け直したものと思われる。

この鎌ヶ谷の橋脚はみな台地と台地の間の窪地にたっており、その部分が公園化している。最初見たときは、ちょっと威圧感があるが、付近の住民の人の憩いの場になっている。このすぐ上の台地上にも、御影石の境界標石があった。台地上の境界標石は小さく、他では見かけないタイプである。 

 

 <鎌ヶ谷の市街地に残る橋脚跡>

 

 

<公園のなかの橋脚>

 

 

八柱駅周辺の境界標石、線路跡  

 

八柱駅周辺には境界標石がいくつもあり、少し離れた森のホール付近にも廃線跡がある。1924年(大正13年)、松戸の陸軍工兵学校から八柱演習場までの軽便路線を工兵学校が敷設した。が、その沿線やに陸軍境界標石が現存している。

新京成線として、現在営業している路線以外に、かつての鉄道連隊の演習線が廃線となった跡にも、陸軍境界標石はある。前述の常盤平駅北の住宅街にある陸軍境界標石も、厳密には廃線跡にある。鉄道連隊のつくった陸軍演習線は、満州の地形を模しており、ところどころわざと屈曲させるなどしているため、戦後京成電鉄に払下げられてから、営業運転に適さない屈曲部分をショートカットしたために、新京成の常盤平と五香の間は従来の演習線の路線でなく、五香駅の北、金ヶ作交差点あたりから栗ヶ沢をへて、常盤平駅の北をかすめて、21世紀の森と広場の公園の東を通り、常盤平駅の西のあたりに出てくるのが、かつての演習線の路線であった。

その常盤平駅の西側の八柱駅周辺では、現在の新京成線よりも西側、森のホール付近の道路沿いに演習線は続いていた。また、八柱演習場があった、みのり台駅付近から南西方向へ進む県道の一部が、かつての演習線跡で、北西に折れて松戸方面へと続く。

この八柱駅周辺の境界標石は全部で十くらいあっただろうか。最近みたら、少し減っていた。この境界標石は有名である。ここになぜ集中しているのかは、よく分からない。そもそも境界標石があるのは、演習場が近く、引込み線があった関係だろうか。そして、これだけ残っているのは、あるいは、他では捨てられたものを、ここでは大事にとってあるのだろうか。

また森のホール近くにかつての線路跡が残っている。この線路跡のほうは、あまり知られていないかもしれない。ここにも「陸軍省用地」と書かれた境界標石を見たが、それは哀れ駐車場の車輪止めとして使われていた。 

 

 <八柱駅近くの踏切脇の境界標石>

     

 

 

 <車止めとして使用されていた境界標石>

     

 

 

松戸胡録台から和名ヶ谷にかけての廃線沿いの境界標石

 

 新京成線の八柱駅の西は、稔台、松戸新田、上本郷と続くが、上本郷まではさほど現在の新京成駅の路線とかつての演習線はずれていないが、上本郷と松戸の間は、まったくといっていいほど、演習線は今の新京成の路線とかけ離れている。実は上本郷駅東側の線路沿いの道路は、かつての演習線の廃線跡である。今はその道路はほとんど直線的に国道6号線のほうへ向かっているが、演習線は本線が胡録台から松戸中央消防署のほうへのび、現在の庚申塔バス停付近で県道と交差し、さらに和名ヶ谷を南下、陣ヶ前を経て、三矢小台に至る。

 

<廃線跡だった上本郷駅脇の道路>

 

 

それにしても、かつての鉄道連隊の演習線は、曲がりくねっていたもので、上本郷から松戸の中心市街地までが、直線的な路線で結ばれていない。

陸軍工兵学校へむかう路線は、支線とのことであるが、これは後述するように、ほぼ現在の道路沿いに国道6号線にぶつかり、それを越えて岩瀬にはいって工兵学校にいたるものである。

一方、上本郷駅前をあとにして胡録台で工兵学校へむかう路線と分岐する本線の遺構は、やはり道沿いなどに残る境界標石である。ただ、胡録台には陸軍工兵学校の兵舎があって、付随する防空壕も遺跡の発掘でみつかっている。だから、一概に境界標石すべてが鉄道連隊のものか否かは不明である。

 

<胡録台の道路にある境界標石>

 

 

その胡録台で今の中央消防署の裏手あたりで東へ軌道は進路を変え、県道181号線をわたって、再びカーブしながら南下、まてばしい通りを庚申塔のある場所付近で越えて、和名ヶ谷に入る。

実は、廃線跡のカーブしている様子は、マンションに囲まれた一角に残る畑のなかに点々と境界標石があり、それを目印にするとはっきり分かる。境界標石は白い御影石で、茶色と緑の畑の中にあるため、発見しやすい。

その場所は、廃線ファンなどでは有名な場所らしいが、戦争遺跡や鉄道に興味のないひとには、畑を見つめ、写真を撮ったりする我々は、不審な人物に見えるかもしれない。

 

 <廃線跡のカーブに沿って建った畑のなかの境界標石>

 

 

* 矢印や白い線は分かりやすくするために後から付加

 

さらに、今の和名ヶ谷中学校の前の通りにほぼ重なるルートで軌道は和名ヶ谷を南下していたようで、その途中、病院の駐車場や畑の中などに境界標石がみられる。なお、近隣住宅の庭先に放ってあるものもあった。

 

 <和名ヶ谷の畑地、荒地境にある境界標石>

 

「陸軍」の文字が薄くなり、よく読めない

 

 <和名ヶ谷の畑地にある境界標石>

 

 

この先、陣ヶ前の辺りからは市街地化が進んでおり、道路も付け替えれた住宅地、商業地のなかで、どこが廃線で遺構が何かあるかなどは、廃線跡も寸断されており、分かりにくくなっている。

 

終点は、松戸の大橋の旧字名で「中の兵(なかのひょう)」という場所であり、現在の柿ノ木台小学校や二十世紀が丘市民センターに近い二十世紀が丘美野里町か二十世紀が丘柿ノ木町辺りと考えられる。その終点からさらに柿ノ木台小学校の傍を通って、国道下から千葉大園芸学部の西側まで抜けるルートがあり、またJRの電車庫を横切って、浅間神社の横を通り、下矢切の矢切の渡し付近まで用地が買収されていて、常時ではないが演習によって軌道を敷設することがあったという。

 

<終点があった柿ノ木小学校周辺の市街地>

 

 


松戸相模台の陸軍工兵学校附近の境界標石

 

 これも鉄道連隊の演習線に関係ある境界標石らしい。もちろん、工兵学校があった場所であるから、隊門とか、その関係の遺構もいろいろ残っているし、境界標石も「地獄坂」に一つ、今の相模台公園に一つ、工兵学校裏の階段に二つといった具合に残っている。松戸は工兵学校まで演習線は延びていたが、松戸における演習線の終点は現在の三矢小台のあたりで、工兵学校方面は支線だったという。戦後、新京成の路線にするとき、それでは不便なので、現在のJR松戸駅に隣接するようにしたらしい。だから、松戸駅あたりも、かつての演習線と今の新京成が重ならない場所になっている。

 

前述したように、今の新京成線の上本郷駅の東側の線路沿いの道路は、かつての演習線の廃線跡で、南下して胡録台商店街のある道と交差し、さらに現在の国道6号線を越えると、岩瀬となり、陸軍工兵学校は目前に迫る。すべて、現在の道が廃線跡というわけではないが、ところどころ廃線跡らしい場所が残っている。例えば、現在の国道6号線と交差するあたりなどは、そういう場所である。

 

<廃線跡の道路(左側車が停車している)が国道と交差する付近>

 

 

さらに、市営住宅などが建っている場所の脇を通り、小さな交差点を過ぎる。その交差点の北西角には、敷地に馬頭観音の祠がある家がある。実は、松戸一中のなかにも正一位稲荷があるが、そのあたりは工兵学校の厩舎や馬丁舎、装蹄場などがあり、馬頭観音のある場所は馬の墓場であったかもしれない。

それはともかく、現在の松戸一中の通用門になっている所は、かつて陸軍工兵学校の通用門(通称「裏門」)があった場所で、その前まで演習線は来ていたらしい。

 

 <松戸市相模台、松戸一中南側にある境界標石>

 

 

近隣住民によれば、上の境界標石は、元は現在の松戸一中の通用門である工兵学校裏門付近にあったらしいが、後に工兵学校関係者が現在地に移したという。

 

<松戸市相模台、松戸一中東側斜面にある境界標石>

 

 

 

 なお、上記路線をまわる際に、伊 騰さんのコメントを参考にし、また地元の方からも一部聞き取りを行いました。

 

 

参考文献:『千葉県の戦争遺跡をあるく』 千葉県歴史教育者協議会 (2004)

       『習志野市史』 習志野市

       『歴史読本 日本陸軍機械化部隊総覧』 新人物往来社 (1991) 

              『新京成沿線ガイド』  崙書房  (1995)

       『昭和の松戸誌』 渡邉幸三郎 崙書房  (2005)

       『鎌ヶ谷市史 資料集17』 鎌ヶ谷市教育委員会 (2008) ほか

参考サイト:習志野市HP (「新ならしの散策」 平成9年2月15日号 鉄道連隊ゆかりの地)  http://www.city.narashino.chiba.jp/konnamachi/midokoro/sansaku/h9/sansaku018/index.html

 

 

 

 

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