動画は http://hkuma.com/index.html  より

三里塚、成田の鉄道連隊遺構

多古線の廃線跡を探る
 
 鉄道連隊が協力した成田駅発の県営軽便鉄道

 

陸軍鉄道連隊が建設したのは、千葉〜津田沼、作草部〜四街道、津田沼〜松戸の演習線だけではない。千葉県営の軽便鉄道の建設にも協力している。

千葉県の第11代県知事である有吉忠一は、内務省出身ながら、前知事の緊縮政策を切替え、各地から鉄道の要求には千葉県に誘致した鉄道連隊の遊休資材や技術を利用し軽便鉄道を敷設したり、農業・漁業の振興策に取り組むなど、積極的な県政を推進した。彼は、のちに宮崎県、神奈川県知事を歴任したが、そこでも鉄道敷設や多摩川改修など、さまざまな事業を推進している。

 

有吉忠一は、千葉県知事在任中、千葉県下の交通事情の悪さを解消するために、軽便鉄道を敷設して鉄道網を築こうと考えた。そして有吉知事は、鉄道連隊には、日露戦争のために、ドイツから大量に購入した双合蒸気機関車や軌匡などが未使用に近い形で保管されていることを知り、鉄道連隊の演習場所の提供と、資材の貸出(将来の払下げ)を陸軍に要請、これに許可がおりると、鉄道連隊の資材を使って、蘇我以南に県営鉄道を敷設する計画を具体化していくことになる。

これは陸軍鉄道連隊から車両、器材を借用し、工事も連隊の演習として実施、開通後は国鉄に貸すという計画であったという。この計画が注目され、当時の政府・鉄道院総裁の後藤新平が内房を視察、鉄道連隊による建設から一転、国鉄が建設することとなった。難工事の末に、1912年(明治45年)3月28日、蘇我-姉ヶ崎が開通した。一方、蘇我以南の敷設が国鉄が直接行うことで中断した県営鉄道の計画であるが、新たな候補地を見つけた。

 

1908年(明治43年)6月、臨時の千葉県議会で、新たに成田〜多古間、柏〜野田間に県営鉄道を敷設することが提案され、議決された。そのうち、成田〜多古間の路線は、成田と御料牧場の設置で、開発された三里塚一帯の交通、また栗山沿いの農村の中心地多古を結び、さらに三里塚から総武本線八街に至るもので、三里塚や多古周辺の農作物輸送のために計画された。当時、成田に乗り入れる鉄道では国鉄や成田周辺の私鉄として成田鉄道(1920年に国鉄成田線となる)、成宗電気軌道(1918年成田電気軌道と改称)があったが、いずれも多古や三里塚方面にはのびていなかった。

 

陸軍鉄道連隊から軽便材料や車両類の貸与を受けて、1909年(明治44年)7月5日、千葉県営鉄道多古線として成田〜三里塚(改軌前9.7Km、改軌後9.0Km)および三里塚貨物支線0.5Kmが開業した。

 

1909年(明治44年)年10月5日には三里塚〜多古(改軌前13.8Km、改軌後11.8Km)と栗山川荷扱所線0.8Kmが開業した。

 

<絵葉書にある多古線千代田停車場の写真>

 

 

成田〜多古間の軌間はドイツ方式の600ミリで、全国的にも珍しいナローゲージの一般営業軽便鉄道であった。機関士として、鉄道連隊の兵士が運行に当たっていた。

 

この時の機関車は双合式で重量も7.5トンに過ぎず、その機関車に軍用無蓋貨車を利用して製造した客貨車を連結して走らせたのだが、スピードは極めて遅かったらしい。成田〜多古間23.5kmに何と約2時間を要した。時速12Kmにみたないという速度である。馬力も弱く、途中の勾配区間では乗客が多いときは登ることが出来ず、乗客が降りて後ろから押したり、男性が用足しに汽車から飛び降りて、用を足した後に飛び乗ったなどと、のどかな鉄道であった。三里塚牧場用に皇族や高官の乗車を想定して貴賓車もつくられたが、線路状態も劣悪であったため、殆ど利用されることはなかったという。

 

経営状態はあまり良くなく、1912年(大正元年)、当時の告森知事が県議会で報告した内容では、成田〜多古間の用地は沿線地域からの寄付により建設費をおさえることができるとの予想に対し、意外に用地買収費がかかったことや土木工事費も想定以上にかさんだとのことであった。

 

しかし、そういう経営状態にもかかわらず、1914年(大正3年)5月には、その前年の千葉〜三里塚鉄道敷設大演習で出来た路線の一部を利用し、支線として三里塚〜八街(13.8Km)の八街線を開業した。多古線も八街線も鉄道連隊の演習用の軽便鉄道として敷設され、県に払い下げられて県営軽便鉄道として営業運転したもので、八街で接続する総武鉄道とともに農作物運搬や旅客用の足として活用された。

 

鉄道敷設から日常運行まで含めて、陸軍鉄道連隊に依存していた県営軽便鉄道多古線、八街線であったが、車両設備の鉄道連隊からの借用期限は1915年(大正4年)3月末日となっており、千葉県はさらに5年延長を請願した。結果は、1年間の延長、さらに1年間の延長が認められたが、1916年(大正5年)11月、陸軍としてはこれ以上同じように無為に継続させることはできない、次の3案のうちいずれかを選択するようにと事実上の最後通牒が寄せられた。

 

それは、以下の通りであった。

〇楡濮管瑤鮖饂困3割引きに当たる24万円余りで県に払い下げる

一切を撤去し、陸軍へ返還する

E面10万円余の修繕費を投じ、その後毎年2万円を県が支出するならば、

 引続き継続使用させる、  という3案であった。

 

1917年(大正6年)2月に新知事となった折原巳一郎の奔走もあって、結局無償譲り受けが決定、同年12月に正式に移管された。

 

その後、成田から銚子までのびている鉄道路線がないことから、県営軽便鉄道を多古から八日市場まで延伸し、八日市場から国鉄経由で銚子と連絡することが考えられ、多古〜八日市場(9.4Km)間の路線を軌間1,067ミリで建設、1926年(大正15年)12月5日に千葉県の手で開業した。1923年(大正12年)度の多古線全線における輸送実績は22万8,407人で、1916年(大正5年)の13万783人と比べると、1.75倍ほどに増加した。これは、他の私鉄なども同様の傾向を示している。ちなみに成田電気軌道の1926年(大正12年)の時点の輸送実績は、75万5,634人で、1916年(大正5年)の43万9,613人の1.72倍である。


八日市場延伸から間もない1927年(昭和2年)に、千葉県は鉄道網の整備が完成したとして、これらを成田電軌(非電化路線を吸収したため、社名を成田鉄道に変更)に売却した。しかし、多古線は多古を境に軌間が異なるので、1927年(昭和3年)に1,067ミリに改軌した。八街線はそのままで1930年(昭和5年)に内燃動力を併用、ガソリンカーも導入するも、1940年(昭和15年)、富里付近の陸軍下志津飛行学校八街分教場(八街飛行場)が建設された際に廃止された。多古線は、1944年(昭和19年)まで存続したが、セレベス島鉄道敷設用の資材供出のため、廃線となりバス転換された。供出された多古線の鉄道資材は、輸送船が撃沈されたためか行方不明で、結局セレベスでの鉄道敷設は実現しなかった。

 

なお当多古線、八街線は、地図として様々なHPに掲載されている。

下記は、その一つであり、リンクをクリックすると表示するようにした。

 

成田鉄道多古線・八街線路線図

 

 <成田〜多古までの停車場一覧>

   

停車場

 改軌後の成田からの距離

 備考

成田

 ―

 

成田裏(のち不動公園→西成田)

1.7Km

改軌後場所を移転、約600m短縮

東成田

2.8Km

 

法華塚

6.2Km

 大正期の時刻表では4.3マイル(6.9Km)

三里塚

9.0Km

 

千代田

11.7Km 

 

五辻

14.9Km 

改軌後場所を移転

飯笹

16.8Km 

改軌後場所を移転、五辻とともに約600m短縮

染井

18.6Km  

 

多古

20.8Km  

改軌前、多古停車場は多古市街にあり、多古〜八日市場間の路線開業とともに、多古仮停車場ができ、改軌後は以前の多古停車場が廃され、多古仮停車場が多古停車場となった

 

<鉄道連隊の兵たち(1915年当時)>

 








 三里塚小学校にある隊門跡などの遺構

 

 三里塚は、江戸時代は取香牧という牧があり、東西二里四方に民家が一軒もなかったという場所で、わずか近隣の農家の老人などが旅人相手に茶店を営んでいた。しかし、幕末から明治維新の頃は、民家もないさびしい場所なので追剥が出る始末であった。その後、近隣の人たちが1874年(明治7年)に近隣から三里塚と大清水に家を建てて商売を行えば、旅人も安心して往来できると、牧を管理する勧業寮に無税で五反歩の土地を拝借することを願い出たが、翌年取香種畜場fができたこともあって、日用品の需要があり、その願いは許可された。それで、三里塚への定住が始まったが、許可された当初は三里塚十字路付近に十軒であったのが、1877年(明治10年)には三十四軒と増え、集落を形成した。

 

取香種畜場は下総牧羊場と合併して、下総種畜場となり、1885年(明治18年)に宮内省に移管され、日本唯一の宮廷牧場となった。これは1888年(明治21年9に「下総御料牧場」となった(通常は三里塚牧場と呼ばれた)。そのため、1969年(昭和44年)に成田空港の建設に伴って閉場*するまで、歴代の天皇や皇族が来場し、今の天皇が皇太子だった学習院初等科時代に宿泊したという貴賓館の裏には、その当時の皇太子専用の防空壕まである。

*牧場は栃木県塩谷郡高根沢町に移転

 

<三里塚牧場の事務所>

 

 

貴賓館は、事務所が洋風なのに対して外見は和風の藁ぶき屋根の建物である。これは、もともとは1875年(明治8年)に開設された下総牧羊場の責任者、アップ・ジョーンズの官舎として、現在の富里市に建てられていたもので、彼の退職後は牧羊場の事務所とされ、さらに下総牧羊場が取香種畜場と統合、1888年(明治21年)に三里塚牧場となると三里塚に移転したものである。その後、内部を和洋折衷に大改装して貴賓館とし、各国の大公使を招待する園遊会場や皇族の宿舎に利用された。

この裏にある皇太子の防空壕は、1941年(昭和16年)に宮内省匠寮から間組が受注し、朝鮮人労務者をつかった翌年2月の納期に間に合うように突貫工事が行われたもので、地上に人が一人出入りできる出入口があり、中はコンクリートで固められた堅牢なつくりになっている。今も地表面に多少出張っているので、外からも確認できる。 

 

 <皇太子専用の防空壕>

 

 

当初、三里塚の集落には小学校はなかったが、1889年(明治22年)に東京の両国から牧場の事務所が移って来ると、そこで働く人たちの子弟も増え、小学校をつくることとなった。校舎は廃校となった牧場の獣医学校の講堂を無償で払い下げてもらい、1891年(明治24年)に三里塚小学校が開校した。その後、遠山村会で村の小学校を一校に統合することが決まり、1902年(明治35年)遠山尋常小学校が開校したが、三里塚からは遠いので三里塚に分教場が設立され、それは戦後再び三里塚小学校となった。

 

 <鉄道連隊の門を移設した三里塚小学校の門>

 

 

 

<同 北側から 〜 よく見ると門扉の跡がある>

 

 

 

 この小学校の門は、威風堂々たる赤レンガ門である。これは、成田〜三里塚の軽便鉄道を建設した、津田沼の鉄道大隊(当時の鉄道連隊第三大隊)が三里塚に駐屯し、その門を移設したものという。その鉄道大隊の兵舎は、小学校の裏側、北東約200mの場所に建てられ、常時200人ほどの将兵がいたという。三里塚の停車場の位置からみて、停車場に隣接する場所に兵舎があったと思われる。それにしても、立派な兵舎の門であった。

 

<三里塚小学校南側から>

 

 

 

 付記: 地元農民から農地を奪い、強行された成田空港の開港

 

1960年代増大する国際航空輸送の需要に対して羽田空港は手狭になったと考えた政府は、富里村(現:富里市)に新国際空港を建設しようと、地元と折衝するも、富里には反対同盟が結成され、全国の民主勢力の支援を受けて、計画を撤回させた。かわって政府は宮内省の三里塚牧場があり、その周辺は開拓地も含めて農地が多い三里塚に目をつけ、用地獲得が容易に進むと考えた。宮内省の牧場など移転させればよく、周辺農民も開拓民が多いので切り崩しが可能で、政府に団結して反対する力はないと踏んだのである。

 

しかし、政府の用地買収は代替地も明確でなく、騒音問題についても殆ど説明もなしであった。よって、これに地元農民が反対するのも道理であった。政府は1966年(昭和41年)7月には空港公団を発足させ、強引に空港建設を進めようとし、反対する農民に対しては強制執行も行われた。一方、富里にならって結成された、空港反対同盟は、中核派やブントなど似非左翼暴力集団の「支援」を受け入れてしまい、反対運動も分断された。また似非左翼集団の妄動によって、支援団体も離れて行った。1970年(昭和45年)8月、ついに公団は空港の建設工事に着手し、農地をつぶしていった。

 

実は、この成田空港の敷地内にも、かつて県営鉄道の路線が敷かれていたが、今はその痕跡もない。

 


 三里塚から成田への鉄道路線の痕跡をたどる

 

現在、成田から三里塚までバス路線が運行されている。その三里塚停留場には、いまだに看板に三里塚駅という表記がある。

 

<現在の三里塚停留場付近>

 

 

 

 この三里塚バス停は、「三里塚駅」と通称されているのが、もともとの軽便鉄道の三里塚停車場はその場所ではなく、さらに北へ700mほどいった場所にある。かつての軽便鉄道の路線は、現在の県道とは、その辺りでは大きく東に離れており、北の三里塚小学校辺りでやや近づいている。その三里塚小学校の北東にかつての三里塚停車場があったのだが、現在は痕跡をとどめていない。

 

<住宅地となった三里塚停車場跡付近>

 

 

 

 この三里塚停車場跡付近は、現在若干空き地もあるが、既に住宅地となっており、かつての鉄道連隊の兵士が駐屯し、小さな機関車と客貨車の軽便鉄道が走っていた面影はない。数Km北の法華塚近くには廃線跡であることが分かっている場所がある。

 

<三里塚停車場跡付近からみた旧駅前通り>

 

 

法華塚辺りからは、県道に比較的近い場所を多古線は走っていたらしい。一説によると、多古町にあった日蓮宗の日本寺が江戸まで一里ごとに法華塚を作り、一里は染井、二里は白法∋偉い六偉つ諭∋洋い亘_敖諭五里は寺台としていったという。その四里の法華塚は、地名になっている。偶然にも多古線と法華塚の作られた場所がほぼ重なっており、一里の染井、三里の三里塚、四里の法華塚は停車場の名前とも合致する。

その法華塚には、地名の由来となった法華塚が現存する。

その石碑の表には「南無妙法蓮華経」と大書され、裏には「宝暦十二年壬午年四月良辰」、「願主 滑河村 冨澤五郎兵衛」と刻まれている。宝暦十二年は、1762年であるが、今から約250年前の十代将軍徳川家重の時代で、有名な田沼意次が権勢を振るっていた。

 

<法華塚>

 

 

 

実は、この法華塚の近くには、多古線の廃線跡がある。法華塚付近に京成線を越える陸橋を渡り、県道と並行して走る比較的広い坂道があるが、これがかつて県営軽便鉄道の難所といわれた坂道である。それほど急な坂道でもないように思うが、この程度の勾配でも、600ミリ軌道の軽便鉄道にとっては難儀だったようで、坂を上る際には乗客が降りて押したりした。

 

<法華塚近くの廃線跡>

 

 

法華塚の停車場については、上記地点よりも南側、三里塚寄りの現在の県道近くにあったのであるが、そちらよりも上記の坂道のほうが廃線跡らしい。

その坂道を成田方面に向かうと、途中東関東自動車道の高架を通るが、その道筋がほぼ廃線跡である。今は利便性により道のカーブが減らされているため、必ずしも廃線跡と一致しないとはいえ、インターナショナルガーデンホテル成田の脇を通る辺りまではほぼ廃線跡に近い。

 

<かつて軽便鉄道が通っていたガーデンホテル周辺>

 

 

現在の道筋と廃線跡が大きく不一致になるのはその先で、成田市街地にいたる、根木名川を渡る辺りは、現在の道路は国道51号線にぶつかるT字路となる。しかし、かつて軽便鉄道はT字路の手前で北に向かい、川を渡って成田市街地の寺台に続いていたはずであるが、廃線跡が途切れている。再び、廃線跡らしい道があらわれるのは、国際文化会館脇の道で、これは改軌後の新線跡と、言われる。改軌前は土地の高低差を避けて大きく成田山の周囲をまわるように、土屋から郷部を通り、JR成田線に沿って成田駅に向かっていたが、改軌後はこれが国際文化会館脇からショートカットされ、郷部の方に向かうようになった。その際、今の土屋中央通りと立体交差する、陸橋が架橋された。

 

<国際文化会館脇に廃線跡が続く>

 

 

 

 現在、その新線用の橋脚が土屋中央通の二部内バス停近くに残っている。県営軽便鉄道多古線は1927年(昭和2年)に、成田電軌に売却され、成田電軌は非電化路線を吸収したため、社名を成田鉄道に変更するとともに、多古線の軌間が当初600ミリであったのを拡張する工事を開始、1927年(昭和3年)に1,067ミリに改軌した。そして、成田裏に停車場を廃し、新線では不動公園(または西成田)停車場をつくったが、その停車場は成田山により近い場所に改め、その軌道を通す際に橋脚をつくって、道と交差させた。

今は東側の橋脚跡が残っているが、対向する西側は失われている。現存する橋脚は大きな砂利の混ざった基礎で補強された築堤の端にある、大きなコンクリート製のもので、基礎の南側一部が破壊されている。しかし、県営軽便鉄道多古線、成田鉄道多古線の明確な遺構としては、このくらいとなり、貴重なものである。

新線も西は、ここから郷部に向かい、またJR成田線と並行して成田駅に至った。

ちなみに、この橋脚跡から西へ成田中学校の方にのびる細い道は、江戸時代の旧道で、滑川に通じるという。 軽便鉄道もむやみに敷設していたのではなく、ある程度集落や旧道のある場所に沿ってつくられていたのであろう。

 

 <橋脚跡を北側から見る>

 

 

 

 <橋脚跡を南側から見る>

 

 

 

 

 

参考文献:『地形図でたどる鉄道史 [東日本編] 』 今尾恵介 JTB (2000)

       『成田の史跡散歩』 小倉博  崙書房 (2004)           ほか

 

 


  

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