茂原海軍航空基地

茂原市に残る飛行場跡を紹介。


取材:森-CHAN、写真撮影:染谷 たけし、文責:森 兵男



 航空基地の開設まで

 

茂原は田園都市というイメージが強いが、房総半島のほぼ中心にあり、古くは房総往還の道筋などの交通の要衝にあって、市もたって、商業も発達した町であった。

藻原寺という日蓮宗の古刹もあり、歴史のある町であるが、太平洋戦争期に海軍航空基地があったことは、あまり知られていないかもしれない。

房総半島で海軍基地といえば、木更津、館山が有名であるが、茂原や香取も忘れてはならない。

 

日中戦争が激化し、また、日米関係が悪化していた1941年(昭和16年)7月、国により策定された「国土防衛作戦計画要綱」に基づき、茂原中心部を南北に流れる阿久川の東側、現在の三井化学(株)茂原分工場敷地あたりを中心とした東郷地区(新小轡、本小轡、谷本、木崎、町保)に海軍航空基地の建設が決定した。

その建設が開始されたのは、2ヶ月後の1941年(昭和16年)9月と早く、かなり強引に進められたらしい。時期はちょうど太平洋戦争が始まる直前にあたり、東郷地区の約150戸と東郷小学校及び寺社等が強制移転を命じられ、茂原海軍航空基地(海軍二五二航空隊など)の建設が始まった。

東郷地区住民に対しては、突然の移転命令の通達が出され、以後三次にわたる移転命令により、当時区域内に住んでいた住民は、飛行場用地境界より外500メートルへ強制的に移転させられたという。太平洋戦争の開戦間際の1941年(昭和16年)9月1日に、突然に「用地内住民は実印を持参し、東郷小学校へ午前九時に集合せよ」との通達があり、東郷地区(新小轡、本小轡、谷本、木崎、町保)の105戸の住民たちは、東郷小学校に集められ、そこで強制移転の説明を聞いたのである。それも、予め書類が整えられ、すぐに印を押すことになり、泣く泣く皆印を押して移転に同意させられた。

 

「大東亜共栄圏形成に占める日本の役割は重大で、この土地における軍事基地の建設は必要欠くべからずものである。時局はまた時間を待てず、住民は三ヶ月以内に用地境界より外五〇〇メートルに移転すべし」

 

命令を出すのは簡単であるが、近隣とはいえ先祖代々の土地を離れ、しかも自ら住宅なども壊さねばならないという話を聞かされた住民たちの悲憤は、想像するに余りあるものがある。ある者は寄合の場で「移転を余儀なくされた自分たちは『罹災者』だ」と嘆いたばかりに、即日検束されて、その日は警察の留置場に泊められて始末書を書かされたという。

 

この強制移転は、住宅だけでなく、東郷小学校や役場を含み、自ら長年住み慣れた家を取り壊し、また墓地すら移転させられた住民もおり、移転作業には精神的な苦痛も伴うものであった。移転先の確保も自分たちで行なわなくてはならず、また大部分の農地を失うために農民の苦労は計り知れなかった。通達の夜から地区別の寄り合いが何回も持たれ、近隣の親類、縁者を頼って移転先の確保に皆腐心した。しかも、当時は既に日中戦争開戦から4年もたっており、一家の大黒柱が戦地に行っている家庭も多く、移転や元の家屋の取り壊しなどの労働力の確保も難しかったが、地区内の各集落が力をあわせて実施するしかなかった。移住は、各集落単位で行なわれることもあり、茂原市三貫野(東町)などは、わずか5戸しかなかったのが、集団移住によって1942年(昭和17年)末には、一挙に50余戸の集落になった。

 

東郷小学校移転を記す石碑があり、「旧東郷小学校跡記念碑」と刻まれている。戦後に建てられたものであるにも関わらず、碑の表面が苔類のようなもので変色し、読みにくくなっているが、移転の経緯などが刻まれている。すなわち、「学舎の甍に渡る松籟の音も妙に燦燦と照り映える陽光に祝福された学の聖地であり、此の校地は六才の幼者より二十才の青年子女に至るまでの相互研修の場でもあった斯くして幾星霜此の地に海軍飛行場の設置を■校地も亦其の用地として接収校舎移転の止むなき事態となった維時昭和十九年」などと記されている。

 

実際には、住民の移転に伴う補償がどの程度だったかといえば、買収用地の価格は、山林が、一反歩(10アール)250円(坪単価83銭)、畑地450円(同1円50銭)、水田500〜600円(同1円66銭〜2円)、宅地1200円(同4円)という値段である。また、家屋の移転料も一方的に査定された。ちなみに、当時そば一杯が15銭、刻み煙草(30グラム入りの「みのり」)が20銭、教師の初任給が55円だったのだが、山林は一坪がそば5.5杯分、値段に直すとそば一杯が600円として3,300円だから相当安く買い叩かれたものである。それも、お上の命令とあれば、当時は従うよりなかった。 

 

<移転の経緯を刻む石碑>

 

 

 撮影:染谷たけし

 

 短かった航空基地の活動期

 

こうして住民の犠牲の上に出来た、かつての航空基地は、JR茂原駅の北方の工業地帯になっている場所を中心に、新茂原駅東側の住宅地など、茂原市の市街地や周辺農地にわたって存在した。 面積は240町歩(約238ヘクタール)、兵舎敷地40町歩(約39.7ヘクタール)で、完成時想定滑走路の総延長は約3Kmの長さを誇る飛行場になる予定であったが、実際には終戦までに飛行場が完成したとはいえない。しかし、飛行場のおおまかな姿は出来ており、総敷地面積約195ヘクタール、南北に走る幅約80m、長さは約1,000mの主滑走路と他に東西の滑走路1本1,200m×80mの滑走路が1本と1,200m×60mの滑走路が1本であった。戦後になるが、1947年(昭和22年)2月22日に米軍が撮影した航空写真では、滑走路がはっきり写り(以下の写真中央の太く白くなっている部分)、飛行場の北側に大きく湾曲した誘導路とその誘導路に沿って掩体壕も認めることができる。

 

基地本部跡は現在の萩原小学校の場所で、兵舎跡は茂原中学校である。茂原中学校は、1949年(昭和24年)に設立された当初は、兵舎がそのまま校舎として使われていた。三井化学東側の約1,000m道路は当時の滑走路跡とされている。しかし、本当の滑走路は戦後占領軍による接収に引き続く飛行場の復活を恐れた茂原市によって取り壊されて存在しない。今は工場などになっている基地跡の直線的な道路が、当時の名残を留めるようである。基地の東端は、いま大型スーパーや東郷保育所の前にある通称海軍道路と呼ばれているあたりである。

 

その海軍道路とは、強制移転された住民などが基地内を通行することができないため、基地の外周に沿って敷設された迂回用の道路である。海軍道路は、かつては町の外周という形であったかと思うが、今では周辺に住宅や商業施設も建っているために、基幹道路として交通量も多くなっている。

 

 

<戦後の航空写真にみる茂原飛行場>

 

 

 1947年米軍撮影の航空写真(USA-M50-82)

 

<現在の茂原飛行場跡の地図>

 

 国土地理院の二万五千分の一地図より

 

飛行場の建設のための施設部隊は存在したが、少数の正規の軍人以外は徴用工ばかりで、その多くが朝鮮人であった。当時、機械化が進んでいなかったため、重機も少なく、殆ど人力によって用地の整地から行なったのである。

飛行場北西方面にあたる、新茂原駅に近い腰当地区からは、豊田小学校裏山から本納方向の山一帯に掘った地下壕を掘削する時に出た土が、今度は航空基地の整地のための埋め立て用としてトロッコで運ばれた。同じように、南中学校隣の浅間山の崖から採取された石材は空中をバスケットに乗せて、やはり航空基地の建設用に運び込まれた。

その施設作りの土木作業には、近隣の長生中学の生徒などもかり出された。それは後述する掩体壕の工事でも同様であった。

 

 <滑走路跡といわれる道路>

 

 

 撮影:染谷たけし

 

茂原航空基地を使用した航空隊は、第ニ五ニ海軍航空隊である。ニ五ニ空は、元山航空隊戦闘機隊を母体とし、第十一航空艦隊第二二航空艦隊に所属する航空隊として、1942年(昭和17年)9月に館山基地で開隊し、その後ラバウル、内南洋、硫黄島、フィリピンと転戦した歴戦部隊である。

 

二五二空は、当初定数が戦闘機60機の大きな部隊であった。1942年(昭和17年)11月にはラバウルに進出、ラバウルを拠点としながら、ガダルカナル島撤退(ケ号作戦)の支援にブインに展開、またラエやバラレ島の飛行場にも展開して、主にソロモン・東部ニューギニア方面の戦闘に従事した。

1943年(昭和18年)2月には、内南洋方面に移動、ウェーク島など広範囲に分散したが、既に日本軍は守勢にまわっており、拠点を守るのに精一杯であった。。1943年(昭和18年)11月21日、米軍がマキン・タラワ両島に上陸、マキン・タラワの部隊は玉砕した。ニ五ニ空は零戦に爆弾を搭載して出撃するも、マキン・タラワ両島が米軍に占領されると、一段と空襲が激しくなった。12月には、米軍が進出すると予測されたマロエラップに分散していた勢力を集合したが、それでもニ五ニ空の稼働機は30機にすぎなかった。

 

1944年(昭和19年)1月30日、大空襲にて飛行場・基地施設の損害が著しく、マロエラップのニ五ニ空は壊滅状態となってルオット島に後退、米軍のルオット上陸に備えて陸戦準備をしているときに館山への後退命令が出て、2月5日の夜間に迎えに来た陸攻8機により、副長舟木中佐以下の搭乗員は、ウォッゼ、タロア、ブラウンに孤立した他の航空隊の搭乗員とともにからくも脱出してトラック島に退避し、内地帰還を果たした。一方、司令であった柳村義種大佐や地上要員などは残留、それからしばらくして柳村司令は戦死した。

 

1944年(昭和19年)2月20日、新司令となった舟木忠夫中佐のもとで、館山で再建され、第十二航空艦隊第二七航空戦隊に編入、定数48機となった。4月には錬成の場を館山から三沢基地に移した(当時の実働機数55機)。

 

1944年(昭和19年)6月に「あ」号作戦が発動、横空を中心とする八幡部隊に編入された二五二空は零戦39機で硫黄島へ進出。しかし、ここでも苦闘が続き、米機動部隊による6月24日、7月3日、4日の三度の空襲・迎撃戦により24機を失って人的にも大きな打撃をうけ、二五二空は主力を館山に後退させ、一部(戦闘三一七飛行隊)は硫黄島残存兵力として、11月まで交代でB29の迎撃業務にあたることになった。なお、館山で再建された二五二空には、7月の改編時点で硫黄島の戦闘三一七以外に、戦闘三〇二、三一五、三一六の各隊が所属し、四飛行隊・定数48機の編成となった。

 

さらに10月より台湾・フィリピン方面で捷号作戦が実施されることになり、二五二空は戦闘三一七飛行隊を残してフィリピンに進出、レイテ航空総攻撃に参加することになった。しかし、レイテ航空戦では大きく消耗し、戦闘三〇二、三一五、三一六の各飛行隊と、同じ作戦に加わり、二五二空と同じく消耗していた二〇一空の戦闘三〇一、三一一という本土で再建中の飛行隊と交換する形で編成替えを行った。

11月27日、本土に残留していた戦闘三一七飛行隊の一部の爆装零戦11機は、第一次御楯特別攻撃隊としてサイパンへ特攻に向かったが、全機未帰還となった。そして、一連の作戦の失敗の結果、サイパン島は「玉砕」した。

 

<零式艦上戦闘機>

 

三菱重工名古屋宇宙航空システム製作所 史料室にて 撮影:森―CHAN

 

こうしてレイテで大きく傷ついた二五二空は本土に戻り、同じくフィリピンで戦闘を行った二二一空の戦闘三〇八が編入され、戦力再建を行うことになった。また硫黄島残置の戦闘三一七は消耗が激しく壊滅の危機にあったが、残存搭乗員が戦闘三〇八への編入となり、戦闘三〇八硫黄島派遣隊と位置づけられた。

また1944年(昭和19年)末の12月25日、戦闘三〇一は、再編されて三四三空に編入され、通称「新撰組」の名で呼ばれ、紫電改装備の飛行隊として四国、九州方面に展開した。。

かくして1945年(昭和20年)2月5日には、二五二空は茂原に本部を置き、旧二二一空から再編された戦闘三〇四を加え、二〇三空の戦闘三〇八、三一三を編入し、既存の三一一と三一六をあわせて五個飛行隊の編成となり、各飛行隊は茂原、館山で錬成を積んで再起をはかった。

 

内地では、再建中ではあったが、二五ニ空は、茂原などを拠点とし、ドゥリットル以来頻々と来襲する米軍B29の迎撃を行ってきた。2月16日の米艦載機による初空襲で戦闘三〇八、三一一の両飛行隊のべ45機が房総半島上空でグラマンF6F30機を迎撃し、9機失うなど空襲・迎撃戦で次第に消耗し、5個飛行隊(各隊定数48機)が保有機数39機(実働23機)にまで戦力を低下させた。

なお、戦闘三〇八は六〇一空へ移り、戦闘三一一も二〇三空に編入された。

3月末に入ると米軍の沖縄進攻が切迫し二五二空は、戦闘三〇四・三一三・三一六の各飛行隊と3個攻撃(彗星艦爆隊)を合わせて零戦144機、彗星48機の約半数を南九州の国分基地に派遣、爆装零戦による特攻などで多くの隊員を失った。4月1日〜17日までの間に、二五二空は、零戦15機、彗星5機を失った。その後、二五二空は戦闘三〇四飛行隊を郡山、戦闘三一六飛行隊を茂原に配置し

て本土の防空の任に着いたが、消耗を抑え、勢力温存をするなかで敗戦を迎えた。

 

ちなみに、「茂原海軍航空基地 昭和二十年八月二十六日現在の飛行科兵器目録」によれば、

 

茂原海軍航空基地で終戦時米軍へ引き渡された飛行機は、

    零式艦上戦闘機五二型 73機

    零式艦上戦闘機二一型   3機

    彗星艦上爆撃機四三型   1機

    零式練習戦闘機               2機

    白菊機上作業練習機     2機

    九三式中間練習機       4機

-------------------------------------

      合計                85機         であった。

 

 

<海軍道路>

 

 

 撮影:染谷たけし

 

 残された掩体壕

 

さて、現在茂原に残っている茂原航空基地の戦争遺跡は、上述の東郷小学校の記念碑以外は、飛行場の北側を中心とする掩体壕群が主たるものである。これらは、零戦などの茂原航空基地の飛行機を空襲などの際に退避、秘匿するもので、そのなかで一部は飛行場に付随するものとして飛行場の建設に伴って建設されたと思われる。

戦争末期に米軍が日本軍の抵抗を抑えて勝利するための作戦として、「ダウンフォール作戦」という名の本土上陸作戦が立案され、1945年11月に九州に上陸(オリンピック作戦)、さらに九州の航空基地を踏み台として、1946年3月に関東に上陸するというコロネット作戦が考え出された。その米軍の日本上陸予定地は湘南海岸と九十九里浜が想定されていた。1942年(昭和17年)4月のドゥリットル空襲以来、米軍機は日本本土上空にあわわれるようになった。特に1944年(昭和19年)11月にサイパン島が占領され、 サイパン基地から発進したB-29による本土空襲が開始され、翌1945年(昭和20年)空襲激化とともに沖縄に米軍が上陸し、沖縄戦が戦われると米軍の本土上陸が現実に想定されるようになった。勿論、それ以前からサイパン島が陥落した後から、陸軍のなかから本土決戦論が出てきており、米軍の本土上陸に備えて陸海軍首脳はその防衛のための方策を考えていた。

 

一方、二五二空の内地帰還とともに茂原航空基地は、本土防衛拠点としての役割も担うこととなる。掩体壕や誘導路の建設は米軍の空襲などの攻撃から飛行機を分散秘匿して温存することにあった。以前行なわれた聞き取り調査などによれば、1943年(昭和18年)より掩体壕の建設は始まると想定されるが、建設が本格化してくるのは1944年(昭和19年)だという。

 

以下は、現存する掩体壕の一覧である。『千葉史学』第41号の「歴史を語り継ぐ戦争遺跡〜海軍茂原航空基地の掩体壕を例として〜」各務敬 (2003)に掲載された表を引用しつつ備考を加えたものである。

 

当時は20基ほどの掩体壕があったというが、現存は11基となっている。一部が損壊している第4号を除き、他は良好な状態で保たれている。 

 

現存する掩体壕一覧

掩体壕

所 在 地

開口方向

備考

第1号掩体壕

小林字川代西街都2956−1

住宅敷地内(車庫として利用)

第2号掩体壕

新小轡字南台89

南東

農地内(倉庫として利用)

第3号掩体壕

本小轡字東ノ妻1108−1

南西

大規模なもの。市の看板あり

第4号掩体壕

新小轡字杉屋327−1

一部損壊している

第5号掩体壕

本小轡字上ノ原羽黒351

南西

農地内

第6号掩体壕

本小轡字上ノ原羽黒372

北東

農地内

第7号掩体壕

本小轡宇中上ノ原474

南西

農地内

第8号掩体壕

本小轡字宮久保878

南西

爆撃機用か、大規模。宅地内(倉庫)

第9号掩体壕

東郷字南原857

北東

宅地内(倉庫)

第10号掩体壕

東郷字八幡前903−1

南東

住宅内(車庫)

第11号掩体壕

本小轡字東ノ妻1100

北東

農地内

 基本的に皆私有地であり、道路でなく敷地に勝手に立ち入ることは不可

 

◆犠牲者も出た掩体壕の建設

掩体壕を作ったのは、多くの徴用工(その大半が朝鮮人)を抱えた海軍の施設部隊であるが、航空基地の飛行場などを造成したときと同様、近隣住民、とくに中学生や農学校生徒なども動員された。

掩体壕を作る工法として、当時海軍施設本部が採用していたのは、Z工法という急速施工工法である。茂原の掩体壕は、この中のZ5工法とZ6工法で施設設営されたという。土を土堆体という小山状に積み上げ、その上を筵などで覆い、さらに太い金網か木枠を被せ、コンクリートを流し固める。コンクリートが固まると、中の土を出して上に載せて覆土とし、擬装した。いずれも、最初に土堆体を作り、これに被せるものとして鉄鋼コンクリートを打設し、硬化後土堆を取り出し覆土に利用する(Z5工法)か、鉄鋼コンクリートを打設するかわりに木製の型枠を用いてコンクリートを固め、硬化後土堆を取り出し覆土に利用する(Z6工法)というものである。作業を急ぐあまり、コンクリートが固まらないうちに支柱を抜いて、崩れた掩体壕の下敷きになって亡くなる勤労奉仕隊員も出た。

 

 <第3掩体壕:西側から>

 

 

撮影:染谷たけし

 

2011年6月、わが取材班は、現存11基の悉皆調査をすべく、茂原に向かった。宅地内にあるものも地主の許可を得て写真などを撮影させてもらったが、個人の宅地、農地などのものは差しさわりがあると考え、以下公道から見えるものを基本に紹介する。

最初に総合市民センターで大まかな場所を教えてもらい、まず市の看板がたっている第3掩体壕に行くことにした。総合市民センターで教えてもらった通り、三井化学脇の道を北上して暫く行き、カーブする道を道なりに東側に曲がって突き当たった道に「掩体壕」の看板が見え、すぐに道の脇の掩体壕に気付く。あいにく雨が降っていたが、この掩体壕を撮影する頃には、小雨になっていた。壕の上にはいまだに覆土があり、草まで生えている。Z5工法で作った掩体壕というが、そのコンクリートの一部には既にひびが入っていた。

 

<第3掩体壕:東側の路上から>

 

撮影:染谷たけし

 

上の写真は、茂原市が解説の看板をたてている第3掩体壕である。なお、第○という呼称は、茂原市が個々の掩体壕を区別するために、便宜上つけたものである。大きさは「総面積365屐壕の中の面積286屐高さは最大が6m70cm」と看板にあった。これは茂原で作られた掩体壕のなかで、最大級のもの。

次に向かったのが、第3掩体壕のある道沿いを少し北上し、県道283号線に突き当たり、東側に曲がった場所にある第5掩体壕、第6掩体壕である。県道から掩体壕の尾翼側が見えるのが第6掩体壕である。そこから少し離れているが、県道から北へ分岐して弧状に曲がった道沿いを暫く行くと、携帯電話か何かの鉄塔があり、その近くに第5掩体壕がある。これらは、近接して農地のなかにあり、二つを同時に撮影できる。近くまでいって、第5掩体壕の中をよくみると、布目のようなものが付いており、型枠の内側、土堆の表面に筵を覆い、それが型枠越しにコンクリートに接した名残であろう。

 

<第5,6掩体壕>

 

撮影:染谷たけし

 

なお、県道を西側に戻り、第3掩体壕がある道をこえて更に西に行くと北側に第4掩体壕があるが、宅地内でなおかつ竹藪がそばにあって分りにくい。また終戦直後の一時期、金属回収をおこなったとかで鉄筋が取られている部分があり、保存状態はあまり良くない。

第5、6掩体壕の東には、車1台が何とか通ることができる細い道沿いにある田と草地に囲まれた場所に第7掩体壕がある。草むらの中に忽然とコンクリートの塊がある形であるが、比較的よく保存されている。

第8掩体壕は、県道沿いの大きな民家のなかにある。そのため、なかなか見つけることができなかった。第3掩体壕と同じくらいに規模が大きいので、彗星用かもしれない。現在は、掩体壕はそのお宅の倉庫になっている。側面から見ると、覆土があり草が生えているので、庭の築山のように見える。わが取材班は、家人に断って掩体壕の写真を撮らせてもらったが、ここはまさに個人の宅地の内部にあり、その宅地に入らない限り正面からの撮影もできないため、ここでは紹介しない。

第9掩体壕も、当初場所が分らず、取材班は県道を西へ向かい、第2掩体壕を目指した。なお、第9掩体壕は後日取材班の知人の写真家W氏にご教示してもらい、再訪してたどりつくことができた。第2掩体壕は簡単に見つけることができたが、こちらも倉庫か何かとなっているらしく、掩体壕の開口部には扉が付けられていた。

 

<第2掩体壕>

 

 

 撮影:染谷たけし

 

次に向かったのは、第10掩体壕。 これは第3掩体壕がある場所の南西に位置し、第3掩体壕の前を南に少し戻って、道の西側にある宅地内にある。これは現在はそのお宅の駐車場になっている。裏の竹林越しにも見えるが、南側の道路からも掩体壕を見ることができる。なぜか、掩体壕の南側にボートが置いてあった。

 

<第10掩体壕>

 

撮影:染谷たけし

 

さて、わが取材班はその日は第1掩体壕を探索したが、最初に聞いた総合市民センターの職員の方も知らず、もうなくなっているかもしれないという危惧があった。実際地図を頼りに、近くまで行ったつもりで南に行き過ぎていた。萩原交通公園という公園があり、そこで作業していた方にきいたところ場所をご存知で、その人に教えられたように新茂原駅前を目指した。ある家の車庫になっているとのことで、教えられた通りに行った場所を探索すると、最初は分らなかったが、鬱蒼とした木々の下にコンクリートが見え、たしかにその中に何台か車がとめてあった。

結局、第一回目の探索では全部が分らなかったが、残り2つ(第9、第11掩体壕)となり、それは後日探索することにした。

再訪したのは、半年以上後の2012年1月であり、その間香取飛行場の探索なども行っていた。さて、再訪するに当たり、茂原飛行場への引込線の情報を得ていたので、残りの掩体壕とともに、引込線の探索もすることにした。

残りの掩体壕2基は、意外に簡単に見つけることができた。第9掩体壕は東郷小学校移転の記念碑を撮影した場所の近くで、住宅地ということも聞いていたので、近所の方にきくと、すぐに場所を教えてくれた。地主の方に断って撮影を行ったが、今現在は倉庫として使われている。また上に覆土がなく、コンクリートが全面剥き出しである。

 

<第9掩体壕>

 

撮影:染谷たけし

 

さて、最後に第11掩体壕を見つけたのは、車を運転していた染谷さんであった。第3掩体壕の南側で元々場所が分かっていたのに、草木の茂みに隠れて最初に来た時に見えなかったため、なくなったものと勝手に思い込んでいたのである。ところが、次に来たときには割合簡単に見つけることができた。側面から見ると小山に草木が生えているようにしか見えない。6月に来た時には、もっと草深くなっていて、それで見つけられなかったのだろう。

やはり近所の方に聞いて、作場道のような道を通り、舗装道路の反対側から写真を撮影した。

 

<第11掩体壕>

 

撮影:染谷たけし

 

 茂原飛行場関連の引込線跡

 

実は、飛行場から見て北西にあたる新茂原駅のさらに向こう側には、豊田小学校裏山などの山裾に壕を掘った跡があちこちに残っている。「海軍壕」と呼ばれるが、前述したように、その場所の南東にあたる腰当地区の光福寺前からは、その一帯に掘った地下壕を掘削する時に出た土を航空基地の整地のための埋め立て用としてトロッコで運んだという。これは飛行場建設時に暫定的に使われたものと思われる。

また本格的な引込線としては、飛行場で使う物資の輸送に使ったものに間違いないが、ここには茂原駅から阿久川の西側にそって北上し、途中で東へ曲がって川を渡って飛行場に入る引込線が存在した。これは茂原駅の南側で当時の房総東線から上り方向に東へ分岐して阿久川の西岸沿いに北へ進んで、現在の茂原樟陽高校の手前で方向を変え、川を渡った東側の基地に至っていたもので、引込線を走る蒸気機関車としては橋本鉄工所(後の東亜車輌)が横須賀海軍施設部に納入したDタンク機が使用されたという。

 

<引込線の経路>

 

国土地理院二万五千分の一地図に文字入れなど行なった

 

その引込線跡は、現在住宅地を通る細い道になっているらしく、線路の跡などは存在しない。引込線が川を渡っていた橋も現存しないが、橋梁の土台部分のみ今も残っている。

 

 <引込線の橋梁跡>

撮影:染谷たけし

 

戦後の1955年(昭和30年)3月18日、茂原海軍航空基地が自衛隊の基地になろうとしたとき、茂原市議会は満場一致で基地に反対する決議を行った。その決議をうけて旧飛行場復活絶対反対東郷地区民大会も、当時の東郷小学校の講堂で開かれた。そして、5月28日には、茂原市全体の代表が2万7千名の署名を携え、国会に陳情に出向き、ついに防衛庁も茂原での自衛隊基地設置を断念せざるをえなかった。

それは海軍航空基地を建設する際に強制的に家を移転させられ、また基地建設に協力させられながら、今後も道理のない戦争と戦時体制への強制的な動員はご免だという住民の意思が実ったものである。

 

 

 

参考文献:「歴史を語り継ぐ戦争遺跡〜海軍茂原航空基地の掩体壕を例として〜」各務敬      『千葉史学』第41号 (2003)

       『茂原海軍航空隊調査報告書』 茂原市教育委員会  (1996)  

       ほか

 


リンク

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第二海軍航空廠(巌根、八重原、佐貫地下工場)

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