木更津海軍航空隊

千葉県木更津市に残る航空隊跡とその戦史を紹介します。


取材:森-CHAN(一部写真も)、写真撮影:染谷 たけし、文責:森 兵男


 木更津海軍航空隊の開設まで

 

満州事変後、中国大陸への進出を画策する軍部にあって、中国大陸への長距離飛行での空爆を企図し、同時に航空機による攻撃から首都防衛を考えていた海軍は、かねて東京湾沿岸の適地を選び、海軍航空隊を建設しようと考えていた。

 

東京湾沿岸の候補地は木更津・青堀・姉ヶ崎、行徳などとなっており、1934年(昭和9年)年頭には海軍省から千葉県知事にその旨の内示があり、木更津町長であった石川善之助らも海軍航空隊の誘致運動をはじめた。

すなわち、同年7月5日には石川町長の提唱にて、「木更津飛行場建設促進同盟会」が結成され、翌々日の7日には横須賀鎮守府建築部より測量要員6名が派遣されて現地測量が行われた。一方、木更津海軍飛行場の予定地であった巌根村中里・江川地区の漁民ら住民にとっては寝耳に水であり、また中里・江川地区の海岸の一部埋め立てによって漁業を行う場所が制約されるため建設反対の声があがった。しかし、「木更津飛行場建設促進同盟会」の実行委員らが説得し、7月中旬にはほぼ反対気運はおさまった。その後、7月20日に横須賀鎮守府より木更津町に海軍航空隊設置決定の通告があった。

 

<木更津海軍航空隊があった陸自木更津駐屯地(南側)遠景>

 

撮影:染谷たけし

 

<木更津海軍航空隊があった陸自木更津駐屯地(北側)遠景>

 

 撮影:染谷たけし

 

こうして同年9月5日より県土木課は買収事務を開始。11月1日には「東京湾海軍航空隊」(仮称)新設起工式が横須賀鎮守府司令長官の永野修身海軍大将以下の臨席で行われた。かくして、東京湾の大規模な埋立工事が開始された。請負業者は浅野財閥系の東京湾埋立株式会社(現・東亜建設工業)。

翌1935年(昭和10年)3月には航空隊建設準備委員が任命され、委員長は竹中龍造海軍大佐が就任した。施設建設は主として横須賀の馬淵組(現在の馬淵建設)が請負い、突貫工事で飛行場建設が進められた。1936年(昭和11年)3月26日には飛行場は概ね完成し、陸上攻撃機(中攻)などの飛行機が配備された。そして同年4月1日に、木更津海軍航空隊は開隊した。

 

開設された、木更津海軍航空隊(木更津空)は、木空(きくう、もっくう)とも呼ばれ、司令は竹中龍造大佐、副長は青木泰二郎中佐、飛行長曽我義治少佐を含め、准士官まで14名、下士官・兵が約100名であった。5月2日の開隊祝賀式には海軍大臣永野修身大将、横須賀鎮守府司令長官米内光政中将のほか陸海軍の幹部軍人が列席、5月末には町内各小学校児童を招き、優勝旗争奪の運動会も催した。

 

 <開隊当時の隊門前>

 

  『木更津・袖ヶ浦の昭和史』より

 

木更津基地は東京湾に面して、四周に障害物なく広々として、その大きさたるや、幅80m、長さ1,200m(後に2,000m)の滑走路が南西海岸から北東へのび、東西、南北にも1,000mの各一つの滑走路がある、理想的な海軍基地であった。

 

この木更津空は、中国大陸への長距離飛行での空爆を企図した海軍が特に周到に準備した外戦作戦実施部隊であり、平時には首都防衛にあたるもので、同様の目的で西日本を担当する鹿屋海軍航空隊と同時に開隊した。しかし、一般の木更津町住民には、開隊にあたっての式典で海軍のそうそうたる高官が来たり、大相撲の横綱土俵入りがあったりと、物珍しく映ったに違いない。
初代の司令官、竹中龍造大佐にしても、のちに空母の艦長や各地の航空隊の司令を歴任し、最後は海軍航空技術廠支廠長で海軍中将となった人物であるが、当時の木更津町民には民間の家に住み、朝晩車で送迎されている「偉い人」としてしか、認識されなかったであろう。

 

<開隊を祝う地元の人々>

 

 『木更津・袖ヶ浦の昭和史』より

 

なお、開隊の日に見学を許されたのは限られた小中学、女学校生徒などで、その他一般の人には許されなかった


 中国大陸へ渡洋爆撃を行なった拠点

 

1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約締結により、補助艦艇(巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、基準排水量1万トン以下空母など)の保有を制限され、大型巡洋艦は対米比で約6割、潜水艦は日米同保有量となったものの、日本の補助艦艇の保有率は対米比で約7割となったことで補助艦戦備の道が大きく制限されたことに、危機感を強めた海軍は、その制約のもとでも戦力拡大できる航空機の増強に活路を見出していくことになった。また、1931年(昭和6年)の満州事変以降、日本の中国大陸侵略は日中全面戦争に拡大しつつあるなかで、航空兵力を拡充するため、海軍は軍備補充計画を次々に策定、海上哨戒や機上からの偵察では従来の飛行艇では能力に限界があることから、新しい飛行機の開発をすすめた。

 

1933年(昭和8)年、当時海軍航空本部長であった山本五十六少将らの原案により、八試特偵と呼ばれる双発長距離陸上機の試作が行われた。それは三菱の本庄、久保技師らにより、ユンカース系の技術に独自の創意工夫を加えて作られ、1934年(昭和9年)4月に日本最初の双発引込脚と沈頭鋲丸胴をもつ美しい機体であった。飛行実験では、最高速度が時速265Km、正規航続距離が4,400Kmという優れた性能を示し、ただちにこれをベースとして九試中型陸上攻撃機が試作されることになった。

 

九試中型陸上攻撃機は、八試特偵が無武装であったのに対し、各方面の銃座が要求されたため、胴体部分が太くなり、凸凹も多くなったが、機首から操縦席の辺りはスマートで、視界も広く、主翼、尾翼は八試特偵とほぼ同じで、面積も十分とってあった。この第一号機は、1935年(昭和10年)7月に完成、各務ヶ原で試験飛行が行われた。発動機は五号機より三菱の金星空冷式が採用され、速度はさらに向上した。プロペラは可変式となり、自動操縦装置を初めて搭載し、また無線帰投装置の優秀性を発揮した画期的な機であった。

 

九六式陸上中型攻撃機>

 

『零戦 日本海軍航空小史』(1953年)より

 

1936年(昭和11年)6月2日、上記九試中型陸上攻撃機は兵器採用され、九六式陸上中型攻撃機(中攻)となった。九六式陸上中型攻撃機二一型で、最大速度が時速380Kmであった。また、同時期開発された広工廠七試特別攻撃機は九五式陸上攻撃機(大攻)となった。その兵器採用されたばかりの最新鋭の陸上攻撃機が、木更津に配備された。1936年(昭和11年)8月末時点で、九六式中攻9機、九五式陸攻(大攻)4機という配備数であったが、その後機材・人員ともに次第に増強された。

 

1936年(昭和11年)9月24日、北海事件を契機として、木更津空・鹿屋空陸攻選抜隊で第十一航空隊を編成し、台湾の陸軍屏東飛行場に進出した。この北海事件は広東省北海で日本人薬種商中野順三を暴漢が殺害したという事件で、これを奇貨として日本軍は一気に広東に出動しようとしたのである。しかしながら、11月26日に北海事件が解決すると、第十一航空隊の出動はなくなり、原隊復帰した。この短い編成期間中に第十一航空隊におきた特筆すべき事項は、木更津基地を飛び立って、台湾を目指した大攻一機(機長:亀田三郎航空兵曹長)が10月4日に伊豆半島東岸沖に墜落、乗員8名が殉職したことのみである(以下:アジ歴文書より該当記事を引用)。

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件名標題(日本語) 11空隊機密第19号の2 11.12.5  95式陸上攻撃機航空事故調書

階層 防衛省防衛研究所>海軍省公文備考>公文備考等>公文備考>昭和>昭和11年>公文備考 昭和11年 T 事件 巻9

レファレンスコード C05035417400

 

発送番号 十一空隊機密第九号ノ@ 昭和 年 月 日 於 第十一航空隊 所轄長職氏名印 第十一航空隊司令 竹中龍三(ママ)

(航空機名) 九五式陸上攻撃機 航空事故調書

事故発生年月日時及場所 昭和十一年十月四日 〇七五五・伊豆半島東岸稲取岬ノ沖

航空作業種別 木更津鹿屋間移動

搭乗員 操縦員 官(職)階氏名 飛行時数 海軍航空兵曹長 亀田三郎 経歴(操縦ニ関スルモノ) 五期操練 大正一三・二・二八卒業 総飛行時数 二三二八−五五 九五式陸攻飛行時数 一〇九−三五

搭乗員 操縦員 (以下、官姓名以外略) 海軍一等航空兵 村山作蔵

同乗員 ニ空曹 山本善一郎 (偵察員)

      三空曹 原 典夫(偵察員)

            一空    松本哲夫(電信員)

            一空    佐藤正三(電信員)

            ニ整曹 重松重雄(搭乗発動機員)

            三整曹 伊藤末吉(搭乗発動機員)

(略)

損傷ノ程度 掩乗員 八名殉職 器材 大破

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かねて中国東北部に清朝の廃帝溥儀を担ぎ出して「満州国」という傀儡政権を樹立し、中国大陸を南下して侵略を進めていた日本とそれに抗する中国は、1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件に端を発し、日中の全面戦争に突入していった。

 

日中戦争開始直後の7月11日 戦火拡大に備え、日本海軍中央は即応準備令を発し、木更津空・鹿屋空の中攻主力で第一連合航空隊を編成し、司令部を木更津に置いた(16日に鹿屋空に転進)。司令部の要員については、司令官として館山航空隊司令戸塚道太郎大佐をあて、先任参謀には菊池朝三中佐が起用された。8月1日の陣容は木更津本隊は、館山空の中攻を編入し、中攻20機。司令:竹中龍造大佐、准士官以上39名、兵員573名。残留隊は中攻数機、大攻6機で荒木啓吉中佐を指揮官とし、准士官以上15,6名、兵員200名。

鹿屋空隊は中攻18機で司令は石井芸江大佐。

 

かくして、8月8日木更津本隊は大村基地へ、司令部と鹿空隊は台北松山基地に進出完了した。そして第一連合航空隊は、第三艦隊司令長官(長谷川清中将)の指揮下にはいった。当初8月8日の移動と同時に、作戦行動を起こす予定だったらしいが、折からの台風の影響で、それは数日延期されることとなった。

 

<渡洋爆撃のため出征する木更津本隊(1937年8月8日)>

 

『木更津・袖ヶ浦の昭和史』より

 

そして、中国空軍の先制撃破を企図し、8月14日木更津空は南京飛行場および附属施設、鹿屋空には南昌の同目標の攻撃命令が下された。しかし、折からの台風による悪天候で攻撃中止が下命されたのもつかの間、中国空軍に先手をとられ、11:40に鹿屋空へ出撃命令、木空は待機となった。鹿空は杭州、広徳飛行場に攻撃目標を変更し、それぞれ飛行場の格納庫を爆破、被弾させ、中国機を10数機爆破した(日本軍は2機未帰還)。

 

8月15日、空前の渡洋爆撃が開始された。これは、後の無辜の中国市民を含む都市への無差別爆撃のはじめであり、実際に、こうした爆撃により多くの非戦闘員が犠牲になった。

木更津本隊は大村飛行場を発し、超低空で大陸へ進み、南京付近高度500mにて強行爆撃をおこなった。中国側も地上から砲火をもって反撃し、木更津本隊は迎撃戦闘機と空中戦を展開後、済州島飛行場に帰着した。4機が自爆、機上戦死2名を含む30名の戦死者をだした木更津本隊は、被弾機も多く兵力は大きく損なわれた。渡洋爆撃は、第一次大戦の際のドイツによるロンドン空襲しか前例がなかったため、海軍省が発表した「前古未曾有の渡洋爆撃」というのは、あながち嘘ではない。しかし、こうした味方の被害は新聞でも詳しく伝えられず、中国側の損害のみが強調され、「海空軍勇猛果敢の空襲」と喧伝された。

 

一方、鹿屋空は可動14機で南昌を目指したが、豪雨に妨げられ、戦果・被害ともに少なかった。

 

翌8月16日、木更津空は9機で南京を指向したが、天候不良のため蘇州に転じ、地上の1機のみ爆撃。1機が朝鮮沿岸に不時着した。 同日鹿屋空は句容に6機、揚州に7機出撃し、句容攻撃隊は空中戦で中国空軍の戦闘機13機を落としたが、指揮官新田少佐機と山内中尉機を失った。また揚州攻撃隊は地上および空中戦で11機を爆破または撃墜したが、梅林中尉機が自爆した。なお、この空中戦で被弾、炎上する黒煙の中から僚機に白いハンカチを振って別れを告げた梅林中尉の最期は、美談に仕立てられ、霧島昇が歌った「あゝ梅林中尉」という戦時歌謡となった。

 

この8月15日、16日の2日間の損失で木更津空の中攻20機は可動12機となった。8月17日、木空11機は蛙埠および准陰飛行場を爆撃。地上飛行機3機爆破、格納庫一つを炎上せしめた。

19日、木空8機は南京の兵器廠その他を爆撃。この日、木空残留隊より4機が搭乗員とともに補充される。なお、20日より攻撃時期を黎明、または薄暮とするようにされた。

8月20日、鹿空9機で漢口に夜明けを期して初攻撃すべく、これを目指すも悪天候にて進入できず、九江を爆撃して帰還。

この間、海軍軍令部では戦果に比して損害の多さを憂慮し、実情調査のため、航空本部教育部長であった大西瀧治郎大佐を派遣した。

 

8月21日、揚州の夜明け爆撃を2小隊6機で企図するも、揚州が発見できず、入佐大尉の小隊は浦口に目標を変更、爆撃した。もう一つの吉田大尉の小隊は浦口を爆撃せず、揚州に向かったようであるが行方不明。結局、木更津空6機中4機が未帰還。生還した2機は入佐大尉の小隊で、視察中の大西瀧治郎大佐が同行した二番機と曽我飛行長が乗った入佐大尉機であった。結局、揚州の夜明け爆撃では4機27名を失い、悪天候のもと低空飛行せざるを得なかったとはいえ、当初中国空軍を侮ってかかり、戦闘機の護衛なしで爆撃する日本海軍の中攻隊の脆弱性をまたも露呈することとなった。

 

かくして、日本軍の側も、損害は大きかったが、以後も爆撃は続いた。

 

8月23日、南京警備司令部、兵器廠爆撃。

8月24日、木空8機で南京大校場飛行場爆撃。

8月25日、鹿空6機で南昌新飛行場爆撃。

8月26日、木空6機で夜南京兵工廠、憲兵司令部を爆撃。1機が中国側戦闘機に迎撃され自爆。

8月27日、木空6機を台北へ派遣、鹿空の広東攻撃に増援。

8月31日、木空・鹿空連合22機で広東天河、白雲飛行場などを攻撃。地上機4機爆破、4機撃墜するも、鹿空1機を失う。

9月1日、「南支」作戦に変更あり、派遣隊は原隊復帰。また一連空の緒戦の戦果に対する感状が第三艦隊司令長官長谷川清中将から授与された。

 

一方、第二連合航空隊(第十二、十三航空隊)が9月9日より上海、公大飛行場に進出し、二攻戦、空母加賀の艦載機も公大に駐留した。第二連合航空隊の司令官は三竝少将。二連空が駐留した、上海の公大基地は、上海と呉淞の間の長江河畔寄りにある、ゴルフ場を利用したもの。そこには、第十二航空隊の九五式艦戦12、九四式艦爆12、九二式艦攻12、第十三航空隊の九六式艦戦12、九六式艦爆6、九六式艦攻12という兵力がいて、地上の日本軍部隊(海軍陸戦隊など)への協力、中国空軍兵力の撃滅を任務とした。

 

<上海の公大基地に駐留の二連空所属の艦載機>

 

 

9月14日から三原元一大尉指揮により、1ヶ月間九五式陸上攻撃機6機が増援のため、済州島に進出。中攻に比して、大攻は図体が大きい割には性能が劣り、「馬鹿鴉」と蔑称されていたが、2トンの爆弾を搭載できるのにものをいわせて、会敵のおそれの少ない陸戦協力のために出動したものである。巌谷 二三男「中攻」によれば、三原大尉は大攻を率いて木更津を出発する前に、巌谷二三男に思う存分暴れてやるが、同時に死を覚悟していると語ったという。

 

9月15日 一連空に中国南部への作戦命令。隊付で野元為輝中佐着任。

9月17日 木空は全機(18機)を台南飛行場に移動。以後は鹿空と協同で広東方面を爆撃するが、9月23日木空は済州島へ復帰。

 

 大攻隊出撃と上海派遣隊編成

 

済州島へ集結した大攻隊は、改造、準備を急いでいたが、遂に9月30日に出撃、250Kg爆弾20個、60Kg爆弾40個で、上海江湾鎮、南翔鎮を爆撃。指揮官は三原分隊長(大尉)で、3個小隊、6機の出撃であった。日本軍被害なし。

 

もちろん、その前後も木空と鹿空からなる一連空の中攻は、艦戦を伴って南京飛行場や漢口などへの爆撃を継続。10月1日〜11日 木空は13空艦戦を伴い、安慶、広徳飛行場に度々出撃、12日には艦戦11機を伴い、南京飛行場、火薬廠を爆撃、戦果少なく、空戦により5機撃墜するも、艦戦3機を失った。13、14日も木空は合肥へ出撃したが、みるべき戦果なし。10月下旬以降も南京、安慶への地上攻撃が行われたが、大きな戦果はなかった。

 

一方上海に進出した大攻隊は、10月2日から22日にかけて稼働全力をもって戦線後方の要地を爆撃。中国軍の増援部隊移動、貯蔵倉庫などに打撃を与え、「巨大機出現」のニュースは上海の外国新聞記事でも取り上げられた。

 

九五式陸上攻撃機>

 

『零戦 日本海軍航空小史』(1953年)より

 

その上海戦線の大攻隊は、10月24日5機が出動するために、爆弾機銃弾を完装、暖気運転の後4機が並んで始動した際、1機が発火炎上、残りの機にも燃えひろがり、総員退避の命により、機を救おうとした兵たちも大攻4機の搭載した爆弾による自爆を見届けるしかなかった。また立哨中の兵1名が、弾片を受けて殉職した。ようやく隔離した1機も被弾して修理不能となり、整備中だった1機と中攻19機が難を逃れた。

 

かくして、上海に登場した巨大な九五式陸上攻撃機6機からなる大攻隊は、ほぼ全滅、稼働1機のみとなった。その残りの大攻1機には、三原大尉以下士官、准士官のみ乗り込み、10月27日に黄海鎮を爆撃、宝山飛行場に着陸予定のところ、冠水のため、王賓飛行場に着陸した。翌日、翌々日にも爆撃を行うが、南翔鎮上空で地上砲火を浴び、左翼燃料タンクに火を発し、その大攻も修理1ヶ月を要することになった。

 

そこで、木空本隊が中攻3機を王賓飛行場に派遣、また航空本部により横須賀海軍航空隊に配属されていた最後の大攻2機が配転され、11月10日に王賓飛行場に到着した。

 

 蘭州初攻撃とパナイ号事件、空からの南京入城

 

当時、11月5日に杭州湾金山衛に強行上陸した陸軍第十軍などと呼応して、木空、鹿空ともに上空から支援にあたり、南京やその周辺に出撃した。しかし、もはや中国軍は敗走しつつあり、3個大隊27機となっていた木空本隊には11月初より中国北部に転進下命あり、11月19日には北京、南苑飛行場に移動完了した。

 

この北京への移動の目的は、北京から約200Km西の甘粛省の蘭州を攻撃することである。当時、蘭州は、ソ連が南京政府の支援のために、ソ連製飛行機を南京や漢口に送るための経路になっていた。

 

北京に移動した木空本隊は、早速翌々日の11月21日、周家口飛行場を急襲、22日も周家口飛行場を爆撃。同24日、25日と陸軍戦闘機とともに洛陽に侵攻し、地上機を爆撃。その後も、12月初旬にかけて、洛陽あるいは南京への攻撃を繰り返した。こうした一連の爆撃、地上への攻撃は上陸した陸軍部隊を支援するとともに、空爆を繰り返すことによって中国側の戦意をそぐ狙いがあったようである。

北京移動の本来の目的である蘭州攻撃は、航空図の用意なく、雑誌キングの附録地図に頼るなど、準備遅れのため延び延びとなり、ようやく12月4日に初攻撃を加えた。これは細川大尉指揮の9機で蘭州飛行場を爆撃、大小飛行機10機以上を爆破したものである。2回目の蘭州攻撃は、12月21日で菅久飛行隊長(少佐)指揮の9機が強襲し、地上機数機爆破、空中戦で4機以上を撃墜した。この菅久飛行隊長指揮の飛行機隊による蘭州攻撃については、12月31日感状が支那方面艦隊司令長官長谷川清中将から授与されているが、その感状では「敵機三十余機を爆破、撃墜」とされた。

  

ところで、南京入城の12月13日の前日12日、日本海軍の歴史に重大な汚点を残すパナイ(パネー)号事件が発生した。これは、南京の近く、居留民避難のためスタンダード石油のタンカー美平(メイビン)、美峡(メイシア)、美安(メイアン)を護衛して長江を遡行中の米砲艦パナイ号(艦長:ヒューズ少佐)をニ連空の海軍機が撃沈するという事件で、誤爆を主張する日本に対し、アメリカは低空飛行である海軍機が故意に襲撃したと主張し、大問題となった。実際、長江北岸を南京へ行軍中の第10軍歩兵第9旅団独立工兵第10連隊の大隊副官村上中尉とヒューズ艦長が会見後、海軍機の爆撃を受けて沈没、美安船長C・H・カールソンが爆死した。さらにその生存者を口封じに一掃するように陸軍の偵察艇があらわれ機関銃を掃射したという。生存した乗員は和県県城に到着したが、チャールズ・エンスミンガー一等水兵とイタリア人ジャーナリストのサンドロ・サンドリが死亡、数日後重傷のエドガー・H・ハルバス水兵が死亡(同時に爆撃され死亡し、合計で4名が死亡、3名が重傷、10名が負傷、日本は外交交渉の過程で非公式に広田弘毅外相が謝罪し、日本側賠償金は$221万となった。同様に英国軍艦に対しても、日本軍は「誤爆」したが、中国人苦力や無辜の民衆の巻き添えなどもあり、中国の民は無差別爆撃の恐怖におびえた。

 

木空はその日、西安飛行場を爆撃していたが、南京入城の12月13日には大攻3機が南京の西端といわれる烏龍山砲台を爆撃した。その後も、14日には木空派遣隊、鹿空の12機と艦戦9機で南昌を攻撃、地上にて19機を爆破。15日には大攻隊3機が艦爆と共同で諸曁(しょき)駅の貨車群や列車を爆撃。17日には南京入城式、空中分列式を行った。大攻3機は任務を終え、木更津帰還となった(1機は故障のため大村に残った)。

 

この南京入城前後の爆撃は、中国の抗日勢力の戦意をそぐ効果を期待したが、逆にペナイ号事件で第三国であるはずのアメリカの対日感情を硬化させた。また、後に発覚する南京事件、いわゆる南京大虐殺により、日本は国際世論の非難にさらされることになる。しかし、ことの始まりは海軍の南京爆撃であり、それによって半ば偶発的に引き起こされたペナイ号など、米英砲艦や民間艦船への爆撃、大使館、居留民に対する略奪・暴行も含めて、米英の対日感情を硬化させ、後に大きな禍根を残すことになった。

 

 南京集結と重慶爆撃

 

1938年(昭和13年)に入り、1月2日上海派遣隊の中攻12機(9機とも)は、南京派遣隊となり、大校場飛行場を根拠とする。そのころ、鹿空の中攻は艦載機とともに南昌の攻撃をおこなった。また1月5日、木空本隊も南苑を撤収し、南京大校場飛行場に移動、同時に派遣隊は解隊に本隊と合流するにいたる。以降、木空の中攻24機は南京をベースとした。

話は前後するが、南京入城と期を同じくして、木空の司令は竹中龍造大佐から加来止男大佐にかわり、新体制となった。また、木空の南京集結とともに、一連空、二連空をもって連合空襲部隊を編成し、その指揮官は二連空司令官塚原二四三少将がつとめた。

1月には南昌、漢口の飛行場などを攻撃。この頃、12月から加賀艦載機、水偵隊が中国南部にて会敵、広東周辺で何機か撃墜したが、1月8,9日には水艇11機が南寧飛行場を初空襲。1月10日には柳州飛行場を初空襲し、地上機数機を爆破。一方、1月下旬以降、日本軍占領地域への中国空軍の反撃もかなり受けた模様で、1月26日には南京の大校場がソ連製S.B爆撃機12機によって、奇襲され中攻2機炎上、山内醇大尉ら5名が戦死。1月中は日本軍占領地区への敵機50機の来襲に対し、撃墜は3機のみであった。

2月11日、艦戦を伴った22機(所属不詳)で、武漢を攻撃。戦果記録なし。

南京を占領された国民政府は、首都を武漢に移して抗日の意思を明らかにしたが、日本軍の武漢への攻撃がすすみ、危ういとみて、さらに奥地の重慶を臨時の首都としようとした。

2月18日 佐多隊長指揮の木空3機をもって重慶初空襲。1,100Kmの航程ながら、伝単を多数散布し、心理的に強迫することを主目的としながら、飛行場施設にも投弾し、帰途についた。帰還途中、雲中を上昇中に機体各部が氷結したが、雲上に出て事なきを得た。

その後も漢口、衛陽、南昌などを攻撃するも、指揮官級の相次ぐ戦死、アメーバ赤痢におかされた病兵の増加などあって、3月には一連空は連合艦隊に復帰の内命あり。

3月22日 航空部隊の改編が発令。13空の艦上機は12空に併合、13空は中攻の大陸作戦専従となり、木空、鹿空の搭乗員、機材が充当された。また4月1日付けで開隊予定の高雄空にも割かれることとなった。3月27日の一連空最後の中攻45機による武漢三鎮への攻撃は、会敵することなく、軍事施設を爆撃するのにとどまった。この間、木更津海軍航空隊の戦死者は、96名にのぼった。

かくして、3月末をもって初期からの生き残りの将兵は、現地を出発し、原隊に帰還することとなった。帰還した本隊将兵は、残置隊と合同、再編され、訓練に従事した。

 

<中国戦線から帰還する飛行機隊(1938年4月2日)>

 

『木更津・袖ヶ浦の昭和史』より

 

本隊要員が木更津に帰還した頃、木更津海軍航空隊には守護神創建の儀が隊員総意で決定し、木更津神社という隊内神社がつくられた。これは香取神宮と木更津総鎮守という八劔神社から神主を招いて、5月26日に遷座式が執り行われた。

 

つかの間の休息をとった木空本隊は一連空として鹿空とともに連合艦隊に所属、基本からの訓練を日々繰り返した。その間、8月11日には昭和天皇が木更津に行幸、中攻などを見学した。

 

さて、一連空は軍中央の武漢三鎮攻略作戦に呼応し、1938年(昭和13年) 8月22日 木空(司令加来止男大佐)の中攻18機は、鹿空の中攻18機とともに上海に進出。南昌、長沙などを爆撃。9月以降も広東攻略作戦などと呼応して、活発に出動し、9月23日には一連空は安慶に移動、9月26日木空は粤漢鉄道の遮断に出動、以後も10月4日に重慶飛行場の爆撃など各地を攻撃。

 

10月12日には広東攻略戦が開始され、海軍航空部隊もこれを支援した。10月21日まで、木空は敵兵団の後背地を中心に攻撃したが、戦果不明。10月22日には木空、鹿空各9機が梁山に進み、地上機8機を爆破などしている。

 

10月25日には漢口に遡航部隊が突入、陸軍も武昌などに入り、27日には目標であった武漢三鎮を占領した。その後も11月末まで、一連空の木空、鹿空は成都など中国奥地を爆撃、四川省への進攻について支那方面艦隊及川古志郎司令官から感状が授与された。11月30日 一連空は安慶から撤収、12月2日 一連空は原隊に帰還し、連合艦隊付属の任務を継続することになった。

 

12月15日 木空新司令に有馬正文大佐、副長石川淡中佐が着任、一連空も司令官が戸塚少将から塚原二四三少将へかわった。

 

<南昌爆撃>

 

『写真週報 第26号 (昭和13年8月23日)』より

 

 重慶から蘭州へ

 

 年が改まり、1939年(昭和14年)となった当初は、変化なし。しかし、8月下旬になって、一連空に三度出動命令が下った。それは、四川省の奥地である重慶に、国民政府が移ったために、陸上進攻では重慶までたどり着くことが事実上不可能となったために、これをたたくために海軍中攻による陸上攻撃が必要となった訳である。

出動した木空は、司令 有馬正文大佐、副長 石河淡中佐、飛行長 佐多直大少佐、飛行隊長 森永良彦少佐の各幹部、鹿空は司令 大林末雄大佐、副長 小川弘中佐、飛行長 棚町整少佐、飛行隊長 宮崎隆少佐といった面々であった。

9月6日には一連空司令部と木空・鹿空飛行機隊は漢口に進出。各隊24機。

途中の小都市を爆撃しつつ、9月28日、29日は重慶周辺飛行場を爆撃、29-30日には木空9機は重慶に、9機は遂寧に進んだ。10月に入り、1,2日に木空は成都の飛行場を爆撃するなどしたが、10月3日になって一連空は中国軍からの痛烈な反撃を受けることになる。

10月3日 鹿空へ内地から補充される飛行機を出迎えるため戦闘指揮所に司令官以下の幕僚、木空・鹿空幹部が参集していたところ、中国空軍のS.B中爆9機が高度6,000mより約50個の爆弾を投下。この奇襲爆撃により木空石川淡副長、鹿空小川弘副長、一連空航空参謀鈴木剛敏少佐が戦死。木空の森永良彦飛行隊長は下顎骨粉砕の重傷を負い、数日後に戦死。塚原二四三司令官は左腕切断の重傷、大林末雄鹿空司令軽傷。その他士官・下士官の戦死、重軽傷多数であった。

一挙に航空隊幹部が戦死或いは重軽傷となる事案は、稀であるが、重傷の一連空司令官塚原二四三少将にかわって、桑原虎雄二連空司令官が一連空の指揮をとり、塚原少将は療養を余儀なくされた(塚原少将は翌月中将に昇進、半年ほどで回復、艦上勤務は無理とされていたものの、1941年(昭和16年)9月からは第十一航空艦隊司令長官に転じた)。

 

海軍航空隊で、この日被害を受けなかった二連空は、早速打ち合わせを行い、その夜報復攻撃を行うこととし、木空陸攻隊と重慶、梁山の飛行場に攻撃を加えたが敵機を捕捉できず。逆に黎明の梁山では中国空軍の戦闘機に遭遇、指揮官機である中村源三大尉機など多数が被弾、機上戦死者を出した。

その後も、木空隊は四川省の飛行場攻撃などに出動した。

 

10月14日には、木空、鹿空の33機で祁陽、零陵、冷水灘の倉庫群を爆撃、その留守中を中国軍のS.B四波来襲、十三空、十二空、高雄空、および陸軍飛行隊が被爆、7機が炎上し、戦死傷者十数名という犠牲を出した。これは、同じ飛行場に複数の飛行隊が集結していたため、格好の餌食となったもので、以後とりあえず各飛行機隊は分散することになった。

 

11月4日 漢口所在の陸攻、十三空(司令:奥田喜久司大佐)27機(36機?)、木空(飛行隊長:宮崎隆氏少佐)18機、鹿空9機(18機?)は奥田大佐を総指揮官とする成都爆撃隊を編成、成都への総攻撃を行った。これは十三空が目標とした太平寺飛行場の上に下層雲があったため、急遽目標を鳳凰山飛行場に変更、爆撃したが、高角砲の砲撃にあい、またE-15、E-16など中国空軍機が反撃してきた。この空中戦により、総指揮官奥田大佐機が被弾のため炎上し、自爆。奥田大佐や十三空の細川直三郎飛行隊長、森千代次中隊長ら士官、下士官が多数戦死、全機被弾したという状況であった。

 

その後、11月に入ると攻撃目標が蘭州に移された。そのため、11月10日には山西省の最西端である運城に移動、待機し一旦南京に引き揚げるも、11月27日には再度運城に集結した。

 

また戦死した幹部にかわって、11月14日十三空の新司令に市丸利之助大佐、飛行隊長島田航一少佐、中隊長中村友男大尉が着任した。11月15日には、木空の新司令に加藤唯雄大佐が着任した。

 

戦闘機の掩護なく、陸攻のみで出撃し、しかも陸攻の兵装がいかにも不備であったことへの反省が一部でなされ、十三空の庄子大尉は陸攻の兵装強化を意見具申した。これに対し、二連空司令官に就任していた大西瀧治郎少将は蘭州攻撃を即時決行を主張し、庄子大尉の意見を一蹴したかに見えたが、実際は兵装工事が終わるまで、攻撃時期を延長したという(『中攻』 巖谷二三男)。

 

蘭州攻撃は、12月1日に一連空27機、十三空27機で飛行場を爆撃したが、地上機は少なかった。

燃料等の備蓄が底をつき、一連空はいったん運城を離れるが、12月24日に三度運城に集結(木空、鹿空40機、十三空32機、十ニ空16機の計88機に、新重爆36機を加えた124機)。

12月26、27、28日、陸海軍合同蘭州連続攻撃。飛行場や軍事施設を爆撃した。当時としては珍しい、陸海軍共同作戦で28日には黎明を期して99機もの編隊を組んで全弾投下を行った。その表面的な勇壮さとは別に、中国の無辜の民を犠牲にした渡洋爆撃は罪が深いといわざるを得ない。

 

なお、一連空は連合艦隊に復帰の内命あり、翌1940年(昭和15年)に中国大陸を離れることとなった。

 

 <現在の蘭州市街>

 

 

 

 明けて、1940年(昭和15年)1月5日 木空隊は南京基地から原隊を目指し、木更津に帰還した。

その十日後の1月15日に、一連空は編成替があり、一連空は鹿空と高雄空で構成されるようになった。木空は横須賀鎮守府付となり、大型機の特別訓練部隊となった。

木更津航空隊の幹部は司令に加藤唯雄大佐、副長 藤野寛大佐、飛行長 岡田四郎中佐、整備長 島田増吉機関中佐、飛行隊長 田中次郎少佐となった。

一連空の新司令には、山口多聞少将、鹿屋航空隊司令は大林末雄大佐、高雄航空隊司令は菊池朝三大佐という陣容であった。

 

以後、木更津基地は、美幌空、元山空、一空、三沢空の各実施部隊要員の教育・訓練の場となった。その特別訓練項目は多岐にわたり、飛行学生修了士官の技術指導、小隊長教育から、練習生修了下士官兵の訓練、機上電信員、搭乗整備員、射撃員の各訓練が行われた。指導にあたる教官は、大陸や艦隊での長期にわたる経験を持つ老練な者が揃っていたが、そのなかには戦傷病の癒えぬまま勤務を継続していたものが少なくなかった。

 

木更津で大型機の搭乗員特別教育が専ら行われるようになった後、一連空は5月11日、漢口に集結した。

これは、在中国陸攻隊に策応して、重慶攻撃を強力におこなって、蒋介石国民政府を倒し、大陸侵攻を一挙に進めようと企図したものである。

この重慶爆撃を中心とした作戦は一〇一号作戦と呼ばれ、一連空山口司令は漢口に到着したばかりの鹿空高雄空准士官以上を一堂に集め、「在中支航空部隊の総力を挙げて敵首都を攻撃し、重慶政権を崩壊せしめんとす。連合航空隊の一隊*全滅することあるも、敢えてこれを辞するものにあらず」と訓示した。*筆者註:一連空陸攻隊のこと

 

重慶には1937年(昭和12年)11月から1946年(昭和21年)5月の南京遷都まで政府が置かれたが、日本の軍部は国民政府の中国に対する全国支配を否定する立場から、重慶を首都とする国民政府を、一地方政権にすぎないとみなし、「重慶政権」、「重慶政府」と呼んだ。

 

この一〇一号作戦は、1940年(昭和15年)5月18日の成都攻撃を皮切りに、10月まで継続された。当初、飛行場や軍施設を目標に行ってきたが、6月中旬以降、海軍陸攻隊は連日可動全兵力をあげて重慶に「重慶定期」と呼ばれた攻撃を集中し、50数トンから100トン余りの爆弾が家屋密集した地域に落とされた。これは後に日本が体験した東京大空襲のような、無差別絨毯爆撃のはじめともいうべきもので、まさに「東洋のゲルニカ」であった。

 

一〇一号作戦は、陸軍爆撃隊も協同で出動し、連合空襲部隊司令部の報告書「百一号作戦ノ概要」では、(攻撃日数)海軍50日、陸軍21日、(攻撃延べ機数)海軍爆撃機3,627、陸軍爆撃機727、戦闘機など201、(使用爆弾)27,107発、2,957トン、(重慶市内への攻撃日数)、海軍29日、陸軍8日、(重慶市内への攻撃延べ機数)海軍機1,737、陸軍機286、(重慶市内での使用爆弾)10,021発、1,405トンであった。

 

そもそも、この一〇一号作戦は何だったのかといえば、武漢三鎮から中国南部の広東周辺まで占領した日本軍が、中国軍の強い抵抗にあい、食料物資の補給にも苦しむ中で戦局が硬直化し、一気に国民政府の首都重慶をたたけば、戦局を打開できるという妄想を軍上層部が抱いたことから始まるのであり、長躯中国内陸部まで飛行可能な爆撃機を保有する海軍航空隊の陸攻隊がそのお先棒を担がされたのであった。

 

重慶爆撃は、翌1941年(昭和16年)にも、一〇ニ号作戦として継続されることになった。しかし、日本は国民政府どころか、その首都重慶を陥落させることもできず、戦局打開を東南アジアへの侵攻に求め、1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争を開始することになる。

 

 太平洋戦争中の新たな木更津海軍航空隊(七〇七空)

 

木更津基地でも、1940年(昭和15年)1月の中攻隊帰還後2年間ほどは、大型機の搭乗員特別教育のための基地としての状態が続いたのだが、日本が太平洋戦争へと突入していくなかで、再度実施部隊が編成されることになった。

すなわち、1942年(昭和17年)2月24日 第18期大型機訓練員の教育を終了、その後第19期訓練員の教育を中段して索敵、哨戒、雷撃待機を3月17日まで行った後、新たに編成される台湾の新竹海軍航空隊(4月1日開隊)の要員補充交代を行った上で、3月30日に鹿屋経由で台湾の高雄基地に移動すべく、出発した。 

4月1日 関東地区の防衛のため、米軍空母に備え、3月11日にスマトラのゲルンバン、ケンダリー基地から木更津に移動してきた鹿屋航空隊要員を基幹とした、新たな木更津海軍航空隊が編成された。

 

これは、鹿屋航空隊司令であった藤吉直四郎大佐を司令とし、飛行長は内田友志少佐、飛行隊長は鹿屋航空隊で分隊長だった鍋田美吉大尉という幹部構成であった。また新しい木更津海軍航空隊は、第十一航空艦隊第二十六航空戦隊に編入された。編成後、機種を一式陸攻に変更した。

 

4月18日 米軍ドーリットル隊による東京空襲。木空雷撃隊は鍋田大尉指揮で22機出撃し、四空隊5機とともに追撃するが会敵せず。久保一飛曹機が発動機不調のため金華山沖に不時着するが、5名戦死。 

5月15日 三分隊 南鳥島の五三基地に9機派遣、6月20日まで索敵続行。 

5月26日 一、二分隊は千歳基地に14機派遣、6月17日まで索敵続行。 

5月27日 一、二分隊 南鳥島の五三基地に4機派遣、6月20日まで索敵続行。

8月10日 第二十六航空戦にラバウル派遣下命。テニアンを経由し、サイパン基地に進出。

8月14日 六〇〇海里索敵の6機のうち、2機海上不時着。金野一飛曹機が行方不明7名戦死認定。

8月17日 一、二分隊 ラバウルの対岸カビエン基地に進出。

8月21日 二六航戦司令部がテニアンからラバウルに進出するのとあわせて、一、二分隊 ラバウル・ブナカナウ基地に進出。三分隊 ラバウルの対岸カビエン基地に進出。

8月23日 ツラギ方面艦船攻撃のため、カビエンの木空隊、三沢空と共同で出撃するも、悪天候のため引き返し。

8月24日 ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場、在泊艦船を三沢空と共同で爆撃。以後も夜間攻撃を含めて継続。

9月6日、7日 ポートモレスビーを爆撃。

10月11日 千歳・日進の第二師団重火器輸送を上空支援。

11月1日 「第七〇七海軍航空隊」に改称。

12月1日 戦力消滅のため、ラバウルにて解隊。

 

解隊後、搭乗要員は七〇五空(三沢空を改称、木更津で開隊)に編入され、引き続きソロモン諸島上空などでの戦闘に明けくれたが、陸軍のガダルカナル島撤退後は1943年(昭和18年)8月末まではラバウルに留まったが、9月テニアンに撤退、さらにスマトラのバダン、ペリリュー島に転じ、終戦までに、その殆どが戦死し、復員まで生存した搭乗員は16名であった。

 

木更津航空隊の消耗(1942年8月10日から12月1日)

  索敵回数:53回

  索敵延べ機数:192機

  攻撃回数:58回 

  攻撃延べ機数:405機

  損失機数:19機

  戦死:101名

  編成当時の搭乗要員で復員できた者:

  一分隊木村弥一郎飛曹長以下16名(うち復員後死亡4名)

 

第七〇七海軍航空隊のほかに、木更津を原隊とするものではないが、太平洋戦争中に木更津基地に駐留していた部隊としては、第七〇二海軍航空隊がある。

 

第七〇二海軍航空隊とは、1942年(昭和17年)9月第四海軍航空隊がラバウルから木更津に帰還する際に改称したものである。一式陸攻をラバウルに配備するために、台湾の高雄海軍航空隊から19機引き抜き、千歳空の中攻8機とあわせて1942年(昭和17年)2月に編成された第四海軍航空隊は、その編成から半年後の8月7日にはガダルカナル島に上陸した米軍を攻撃し、6機を失い、翌8月8日には第一次ソロモン海戦に出撃するも、わずか3機が帰還でき、殆ど壊滅に近い状態となった。その後も、大きな痛手を受けることがあり、そのため第四航空隊、略して四空は、かげで「死空」と呼ばれるにいたった。

 

ラバウルは、日本陸海軍が南洋諸島のなかで、最重要拠点としたが、第四海軍航空隊は大きく傷つき木更津に帰還して、名前を第七〇二海軍航空隊とかえ、夜間攻撃訓練、本州東方海上哨戒にあたった。

 

その後、1943年(昭和18年)5月には七〇二空は再びラバウルへ行くことになるが、木更津駐留中の1942年(昭和17年)11月27日早朝、夜間飛行訓練をしていた一式陸攻一機が悪天候により墜落事故を起こし、現在も墜落現場近くの船橋市大穴の山林には当時地元の人が建立した慰霊碑がある。

 

<編隊を組んで飛ぶ一式陸攻>

 

『日本軍用機の全貌』より

 


 木更津海軍航空隊関連遺跡

 

JR総武線の快速電車を袖ヶ浦で降り、一駅行った、巌根という駅から西南に300mほど進めば、現在航空自衛隊の補給処となっている場所に出る。実は、その手前にある民間の倉庫会社を含め、その場所はかつて第二海軍航空廠の巌根工場があった場所である。巌根駅は戦時中から存在し、この第二海軍航空廠のために物資・人員を運ぶのに、大いに活躍したのだろうが、駅前の風景はどこのにでもありそうな鄙びたものである。

 

現在の航空自衛隊敷地は、方形になっていて、その周りをほぼ直角に曲がる道路がある。その道路沿い、南へ木更津方面にしばらくいくと、左手に病院があるが、これはかつての第二海軍航空廠附属の海軍病院跡である。

 

海軍病院の横をJRの線路側に出ようとして細い通路を進むと、なにやら古いコンクリートで出来た出入り口のために人一人が通ることのできる開口部のある低い仕切りがある。付近に公営住宅があるので、それに付随するものか、海軍病院、航空廠に関係したものか。それを通り越せば、線路沿いの道に出るのだが、線路に近い草深い場所に古い鉄道の軌道が残っている。

これは、国鉄の木更津駅と巌根駅の中間の線路から分岐し、第二航空廠まで伸びていた引込み線の跡であり、同じ引込線が戦後になってもかなりの間使用されていた模様である。ちなみに、引込線はもう一つあり、現在の海上自衛隊補給処のある補給部跡の方にものびていた。

 

<航空自衛隊補給処近くの引込線の線路>

 

撮影:森-CHAN

 

その引込線跡の近くには、現在の航空自衛隊の周囲の道路がほぼ直角に曲がる角があり、そのまま道なりに進めば、海上自衛隊補給処の門にいたる。今回、自衛隊を訪問することにしたのだが、目当ては航空自衛隊ではなく、海上自衛隊と陸上自衛隊である。それにしても、陸海空の自衛隊が巌根から木更津の間の限定された地域にあるのだが、三つ揃っているのは全国的にも珍しいかもしれない。

 

航空自衛隊と海上自衛隊の間にある広い道は、なだらかに西南へ湾曲しながら伸びているが、これは「海軍道路」という軍用道路である。その広い道路沿いには、店がまばらにしかないが、かつては海の家や飯屋などでにぎわっただろう。

 

<「海軍道路」>

 

撮影:森-CHAN

 

「海軍道路」をそのまま進むと、ガソリンスタンドのある交差点があり、それを過ぎると海自の補給処の門が見えてくる。門の手前に信号があり、それを渡ると海上自衛隊のレンガ塀と格納庫群が目の前に近づく。

これから先は自衛隊の中に入らないと、遺構も分かりにくい。

 

どういうわけか、大きな錨が門前に飾られている。さらに、海上自衛隊の敷地内に入ると、門の内側にも錨が飾られているのに気付く。何という船の錨で、なぜここに二つも飾られているのだろうか。

 

 <海上自衛隊補給処門前の錨>

 

 撮影:染谷たけし

 

海上自衛隊補給処の門を入ると、両脇に格納庫群が並ぶ。しかし、いかにも新しそうなものもあり、すべてが旧軍当時のものではない。自衛官の方に聞くと、結構入れ替えているので、どれが旧軍時代のものか分かりにくくなっているとのことであった。入口から少し離れた場所に小ぶりで、周囲とは色も違う格納庫があり、これは旧軍時代のものだろうと判断した。小ぶりながら、海軍のハンガーは健在である。

 

  <海上自衛隊補給処にある古い格納庫>

 

 撮影:森-CHAN

 

海自の補給処の前の道路沿いには、軍施設特有の堀がぐるりとまわっている。堀を越えて、補給処のフェンス手前の草むらをみれば、防衛庁の境界標石がいくつもある。そのなかで、門近くには二つほど海軍の境界標石がある。

 

境界標石といっても、海軍のものと、防衛庁とでは大きさがまるで違う。

海軍の標石は、三角形の波の模様の下に「海軍」と彫られてる。

 

後ろが旧海軍のもの、前が防衛庁の境界標石だが、高さでほぼ倍、幅も倍だから、体積は2の3乗で8倍ということだろう。

 撮影:染谷たけし

 

海上自衛隊とその南の陸上自衛隊のある場所が、まさに木更津海軍航空隊の敷地であった。敷地を斜めにはしる長い滑走路も、昔の通りで、中心にある滑走路の外側には、見てきたような格納庫や燃料庫にような付随施設、さらに掩体壕、防空壕なども広範囲に残っている。格納庫も海自側よりも南の陸自のほうに、大きなものがある。しかし、前述した自衛官の言葉にあるように、どれが旧軍時代のものかはっきりしないものがある。

一方、旧軍時代の兵舎もいまだに使用されていたり、前述の木更津神社も現存する。

 

 <海上自衛隊側から滑走路を望む>

 

 

 撮影:森-CHAN

 

基地を取り巻く堀は、ずっと続いている。堀は、海自から陸自のほうへ南にいくのにしたがって、次第に広くなる感じで、水門もあった。自衛隊の松林を隔てた外側は、民有地であり、寺や墓地なども存在する。もともとは、その墓地のある場所が海岸線にごく近いところで、住民は漁などをしながら生活してきたのである。陸自の周囲にも堀があり、水門の辺りで釣りをしている人が目立つ。

自衛隊敷地の縁辺に、かなり遺構が残されている模様で、さっそく防空壕が目につく。これはコンクリートの分厚い壁面で囲われ、半地下式になっており、出入り口には爆風を防ぐためのコンクリート製の低い防護壁があり、階段で下に降りることができる。これは何人のものの人間が退避できるコンクリート製の壕で、覆土が残っている。中は横穴が掘られ、部屋が出来ている。もとは鉄板かなにかで出入り口の扉はあったかもしれないが、失われている。背中に換気孔があき、出張った部分は覆土していたようだ。

民間や軍隊でも一般の兵士たちの壕がタコつぼ程度のものだったのに比べ、かなり立派なものである。

 

<防空壕>

 

 撮影:森-CHAN

 

自衛隊敷地の端の方には大きな土手が目に入るが、軍隊でこのような土手があるのは、火薬庫か何かであるが、これは一体なにか。コンクリートが中にあり、その上に覆土されている。また、周囲を赤レンガの壁で囲まれた、ボイラー室が残っている。発電所に付随したものであろうか。赤くさびた鋼鉄製の缶まであるとは珍しい。しかも、缶の高さは、人の身長ほどもある。外側は殆ど失われており、煙突なども見られないが、紛れもなくボイラー室の跡である。

 

<レンガ壁で囲まれたボイラー室跡>

 

 

 撮影:森-CHAN

 

陸上自衛隊木更津駐屯地の航空資料室に行くと、資料室の建物自体が旧軍施設だったとのことに驚かされる。展示されているものでは、一式陸攻のプロペラが印象的である。これは1979年(昭和54年)に東京湾船橋沖で見つかったものだという。陸軍の五式戦闘機(キ−100)の残骸も展示されていた。その他、陸軍の三八式騎銃、 四四式騎銃などの武器や軍服、木更津出身の軍人の遺品などが展示されてある。陸上自衛隊の展示室だけに、陸軍や自衛隊の展示が半分以上を占め、肝心の海軍航空隊の説明がやや少ない。

 

自衛隊を訪問した帰りがけに、広い飛行場跡を見渡せば、遠く海の向こうに溶鉱炉が見え、その手前に小山のようにみえるのは、掩体壕である。

 

海上自衛隊から陸上自衛隊まで敷地内を歩いてみたが、その掩体壕を見るには滑走路を越えて、海に近い場所まで行かねばならないので、それは後日見ることにした。           

 

 <掩体壕>

 

 

 撮影:染谷たけし

 

陸上自衛隊の建物の脇を過ぎ、外に出ると門のすぐ近くに海が迫っている。もともと、漁村だった木更津の一角を埋め立てただけのことはあり、確かに陸自の門のあたりなど、船橋で良く見る漁港風景のように見える。

 

陸自の門は、海軍航空隊の門があった場所で、陸自の現在の門は新しいが、県道に面した門は「開隊当時の隊門前」の写真の日の丸を立てかけた歩哨舎の横にある門である。周辺の吾妻公園になっている場所にも、半分崩れたポンプ小屋のような建物や射撃の的を置いた台のようなものがある。また古い給水栓があり、もしや旧海軍のものかとおもいきや、マークは海軍のものではなく、自衛隊のもののようであった。 

 

<木更津海軍航空隊跡〜現在の陸上自衛隊木更津駐屯地の門>

 

 

撮影:森-CHAN

 

太田山の高角砲台跡と隧道

 

自衛隊から南へ向かい、木更津港のある海岸付近から東へ、富士見通りという、木更津駅まで続く広い道をいけば、左手に切られ与三郎の墓のある光明寺がある。かつては木更津のメインストリートであったのだろうが、今は閑散として、商店街もシャッターをしめた商店も多いようだ。1929年(昭和4年)の松井天山が描いた「千葉県木更津町鳥瞰」を見ると、家が建てこんでいたのは駅の西側であって、それも木更津港辺りから駅までの広い区画に密集している。しかも、松井天山の絵には、現在のような広い富士見通りは描かれていないが、それもそのはずで、この富士見通りも戦争末期の1945年(昭和20年)3月頃からの建物の強制疎開によって拡張されたものである。実は、戦時中空襲に焼かれて被害が拡大するよりも、被害を最小限に留めるために建物を間引きし、住民を強制的に移転させたのである。対象となった住民は、疎開先は縁故を頼るなどして自分で探さざるを得ず、また補償金もなかった。家屋は買い上げられたが、対価は戦後になってようやく貰い、しかも貨幣価値が下がりほぼ丸損ということで、結局住民に不自由を強いた。

 

<現在の富士見通り:光明寺附近>

 

 撮影:森‐CHAN

 

富士見通りを行き、木更津駅を越えれば、駅から東側約1kmに小山がある。この小山を太田山(おおだやま)と呼ぶ。ここには麓に金鈴塚古墳遺物保存館があるが、今は休館している。実は、この金鈴塚古墳遺物保存館は、兵舎があった場所に建っている。

山頂には、郷土博物館金のすずがある。山頂には、またきみさらずの塔が聳えており、ホテルや公園もあって、市民の憩いの場になっている。しかし、ここは戦時中には海軍の高角砲陣地がおかれ、山の麓には兵舎や軍が掘った隧道があって、一種の要塞であった。これを陸軍の高射砲だと思っている人が少なくないが、海軍の高角砲である。

終戦時の米軍への引渡目録によれば、高角砲が置かれたのは、太田山に12.7糎連装高角砲が2基(4門)の他に、畔戸、矢那川、櫻井に12糎高角砲が各4基(各4門)、瓜倉に12糎高角砲が6基(6門)であった。探照燈も各地に合計12台置かれたが、そのうち1台は太田山にあった。

また、終戦時12.7糎高角砲の砲弾361発、12糎高角砲の砲弾1,581発、木更津基地、第二海軍航空廠に配備された機銃の25粍機銃弾143,000発、13粍機銃弾16,800発は太田山隧道の中に所在と引渡目録にある。つまり、終戦時には12.7糎高角砲は1門あたり90発、12糎高角砲は1門あたり88発しか砲弾がなかったのである。12.7糎高角砲の場合、1門あたり14発/分の発射速度が目標とされたから、4門で撃てば1分40秒でなくなってしまう少なさである。

このほか、陸戦用の小銃弾6万発、機銃弾19万発などの弾丸、信管、爆薬、火管、工作機械、軍服、軍帽、作業服、油脂類、医療用具、薬なども太田山隧道にあったと目録に書かれている。

現在、太田山には高角砲はもちろん砲座も残っていないが、その頂上近くまでいけば、なるほど高角砲を備えただけあって、東京湾から遠く君津方面も一望にすることができる場所だと気付く。高角砲は現在忠霊塔の建っている場所辺りと、橘神社近くに置かれていた。

 

<太田山の高角砲跡>

 

 

撮影:染谷たけし

 

 ちなみに、忠霊塔は戦中のものではなく、戦後の1954年(昭和29年)に建立されたのだが、どういう訳か高角砲があったあたりに建てられた。

 

 <高角砲のあった太田山山上>

 

 

 撮影:染谷たけし

 

太田山の山上から下りて、山の北側にあるホテルの出入口となっている通路の前を通って、西側県道の方に出る途中の藪のなかに、防空壕がある。土砂が崩れ、開口部も狭くなっているが、人工的に明けられた穴に間違いなく、後述する隧道と比べて、はるかに小規模で原始的である。駐屯していた兵士用か、あるいは近所の住民のものだろうか。他にも太田山は防空壕があるそうであるが、開口部はふさがれていて分らなくなっている。

 

 <防空壕>

 

 

  撮影:染谷たけし

 

軍が掘った太田山の隧道は、比較的簡単に見つけることができる。それは太田山の西側の県道沿いの低地にいくつも開口部を明けているが、近所の方に聞くと子供が入って遊ぶと危険なので、現在はふさいでいるという。たしかに、隧道は竹矢来のようなもので塞がれ、入れなくなっている。少し中をのぞいたが、何もない。

入口をコンクリートで固め頑丈な造りになっていたり、規模も大きいので、地下工場かと思ったが、工作機械があったようだからそのような使われ方もしたかもしれない。前述の通り、大量な弾薬や被服、医療用具、薬品にいたる様々な物資が、ここに隠され、米軍の空襲に備えたのであろう。

 

<太田山隧道>

 

 撮影:染谷たけし

 

朝鮮人納骨堂と慰安所跡

 

太田山の北東、久留里線祇園駅近くの木更津市永井作の山上に善光寺という真言宗豊山派の寺がある。近くには野球場や学校もあり、国道沿いには商店なども建ち並んでいるが、寺まで来ると、静かで下界の喧騒を忘れるほどである。

 

この善光寺に朝鮮人納骨堂があるが、これは朝鮮総連が戦後建てたもので、一般の墓地の奥の少し高くなっている場所にある。山茶花などの樹木で覆われていて場所が分かりにくく、お寺の方に聞いて、ようやく分ったが、なかなか立派なものである。余りお参りする人もいないだろうと思っていたが、そうでもなく、毎年慰霊祭を行っているそうだ。

 

これは強制連行などで連れてこられた朝鮮人労務者、徴用工などのうち、当地で戦災や労働災害などでなくなった人たちを供養するためのもの。

 

 <納骨堂>

 

 

  撮影:染谷たけし

 

ところで、この朝鮮人徴用工なる人々がどうして日本に来て、海軍工廠などで働いていたのか。
一般には、人の嫌がる危険な仕事、重労働などには囚人たちがよく使われていた。
例えば豊川海軍工廠でも、火工部の火薬庫の周りに大きな土塁があるが、それを築いたのは囚人たちだそうだ。また市川の国府台を軍隊の町として整備するための大掛かりな土木工事にも囚人が動員され、その工事での死者は市川の歴史博物館近くの墓地の片隅に葬られている。
同様に、線路工事などの重労働の土木作業や工場での割りと危険な作業に朝鮮人労務者、徴用工が使われていたようである。

木更津の第二海軍航空廠でも、今と違いオートメーション化が出来ていない工場であるから、人力に頼る重筋労働は至る所であったろう。そこで朝鮮人徴用工が使われたのである。


その彼らは、日本に来たくて来たのだろうか。なかには儲け話があるからと、つられて来た人間もおるだろう。しかし、強制連行の問題がある。これは色々と証言がある。

 

 

<レリーフ>

 

納骨堂には、祭壇に丸い金属製のレリーフが埋め込まれているが、よく見るとダムの絵のようであった。ダムと発電所を真中に置き、周囲を稲の束がとりまく、さらに白頭山の上には星が輝いている図柄は、すなわち朝鮮民主主義人民共和国の国章である

 

  撮影:染谷たけし

 

偶然にも、この善光寺のある木更津市永井作には軍が憲兵隊も動員して作らせた慰安所があった。その慰安所の一角は「六軒町」と呼ばれるが、慰安所が六軒あったことにちなんでいる。勿論、そうした名前は嫌悪されており、地元で使う人は殆どいない。国道に近いその場所は、現在商店などもある民有地であり、遺構は何も残っていないが、立地としては木更津海軍航空隊から直線距離で数キロという条件をみたしている。

これは1942年(昭和17年)3月頃に木更津航空隊と第二海軍航空廠の幹部の話し合いによって、木更津航空隊や第二海軍航空廠に勤務する兵士や工員の不満のはけ口として設置が決定されたもので、翌1943年(昭和18年)2月に6軒の慰安所が完成した。また慰安所建設には、住民を抑えるため憲兵隊が指揮をとり、建設場所も民家から離れたところが選定された。

当初15軒建設される予定であったが、結局6軒のみで、地元住民の反対により後の9軒は断念せざるを得なかった。一軒に7人から10人、計50人ほどの慰安婦がいたが、慰安婦は殆どが十代から二十代の若い日本人で、銚子辺りから騙されて連れてこられたものが多かったという。朝鮮人慰安婦も10人ほどいたが、1943年(昭和18年)秋頃、航空廠の朝鮮人徴用工が母国の女性を一目見ようと慰安所に入ろうとし、附近にいた日本人工員と乱闘騒ぎになった。

田村泰次郎の「肉体の門」のように、映画にもなった日本人慰安婦の戦後の悲しい話はいろいろあるが、朝鮮人慰安婦についても同様である。戦後残っていた3人の慰安婦をやはり朝鮮人の徴用工であった李東乙という人物が引き取り、母国に帰そうと帰国の準備をしてやり、博多まで附き添って汽車で送っていこうとしたとき、帰国をためらったものか汽車のなかで行方不明となったという。

 

 <木更津の海>

 

 

 撮影:染谷たけし

 

 

 

参考文献:『木更津海軍航空隊隊史』 木更津地区海友会編 (1988)

       『中攻 海軍中型攻撃機』 巖谷 二三男 原書房 (1976)  

       『中攻 第二十六号 別冊』 中攻会 (1988)

       『学校が兵舎になったとき』 千葉県歴史教育者協議会編 青木書店 (1996)

       ほか

 


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