ソ連軍歌の起源と日本

 

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 ソビエト連邦初の軍歌は『赤軍に勝る者なし』(鐘がなれば)

 

軍歌は、軍隊で歌う歌、戦いの歌であり、別に日本の専売特許ではない。洋の東西を問わず、国家体制を問わず、存在する。旧ソ連にも、軍歌は存在した。そして、日本よりも国民大衆に親しまれ、今でも歌い継がれている。もう、ソビエト連邦は地球上に存在しないのに、ソビエトの軍歌は依然としてロシアの民衆に親しまれている。

 

そのソ連が誕生したのは、言うまでもなく1917年のロシア革命、二月革命、十月革命という二度の革命によってである。ロシアの民衆は、そのロシア革命によって、帝政ロシア時代のツァーリの専制支配から脱した。ロシア社会民主労働党から出たボリシェヴィキはレーニンの指導のもと、日露戦争におけるロシアの敗戦を革命に結び付けることを追及し、またプロレタリア国際主義の立場から侵略戦争反対の立場を貫いた。第一次世界大戦はレーニンにより、「帝国主義戦争」と位置づけられ、「帝国主義戦争を内乱へ」のスローガンのもと、ボリシェヴィキは戦争協力に転じた第二インターナショナルに反対し、国際主義を標榜する革命勢力の結集を目ざした。

 

<モスクワのワシリイ大聖堂>

 

 

一方、二月革命後の臨時政府は、ソビエトとともに権力を握ったが、従来の英・仏・露による同盟関係を維持、対ドイツ戦を継続する姿勢をとった。臨時政府にはロシア社会民主労働党でボリシェヴィキと対立したメンシェヴィキや社会革命党(エスエル)のメンバーが入閣していた。ボリシェヴィキは大衆運動のなかで民衆の支持を得てソビエトの多数派となっていたが、臨時政府の戦争継続に対し、これを支持せず、「全ての権力をソビエトへ」とソビエトに従う軍の各部隊の協力を得、臨時政府を武装蜂起によって倒した。そして、労働者・農民・兵士のソビエト大会は1917年10月27日に全交戦国に無併合・無賠償の講和を提案する「平和についての布告」、地主からの土地の没収を宣言する「土地についての布告」を採択し、新しい政府としてレーニンを議長とする「人民委員会議」を設立した。かくして、ソビエト権力の樹立が宣言されたのである。

 

しかし、その前途は、多難であった。 

1917年のロシア革命後に成立した新政府は、ドイツの攻撃を食い止めることができず、1918年3月にドイツとブレスト・リトフスク条約を締結し、バルト三国などを割譲した。これを契機に、旧帝政ロシアの白軍の勢力は、息を吹き返し、南ロシア、シベリアなどの都市で白軍が蜂起しボリシェヴィキ政権に反旗を翻した。そして、ある程度の力をもって、ソ連新政権に対峙し、1922年まで内戦状態が続いたのである。

 

ソ連初の軍歌となった、「赤軍に勝る者なし」はその当時の状況を歌にしたもので、白軍や帝国主義列強に対し、ソ連を守る赤軍の士気を鼓舞するような内容になっている。

 

 

赤軍に勝る者なし (1922頃)

 

Красная Армия всех сильней

 

作詞:

作曲:赤軍歌

訳詞:ハナコ・レシチェンコ

 

1.

Белая армия,чёрный барон
Снова готовят нам царский трон,
Но от тайги до британских морей
Красная Армия всех сильней.

  Так пусть же Красная
  Сжимает властно
  Свой штык мозолистой рукой,
  И все должны мы
  Неудержимо
  Идти в последний смертный бой!

  Так пусть же Красная
  Сжимает властно
  Свой штык мозолистой рукой,
  И все должны мы
  Неудержимо
  Идти в последний смертный бой!

 

白軍、黒い男爵は、帝政を再び待ち望む

シベリアの森からバルト海、赤軍に勝る者はなし

 

  力強く 握るこぶし 銃をもて 隊伍組め 

  我ら皆 怒涛のように 最後の決戦へ進め!

 

  (繰返し)

 

2.

Красная Армия,марш вперёд!
Реввоенсовет нас в бой зовёт.
Ведь от тайги до британских морей
Красная Армия всех сильней!

  Так пусть же Красная
  Сжимает властно
  Свой штык мозолистой рукой,
  И все должны мы
  Неудержимо
  Идти в последний смертный бой!

  Так пусть же Красная
  Сжимает властно
  Свой штык мозолистой рукой,
  И все должны мы
  Неудержимо
  Идти в последний смертный бой!

 

赤軍よ 前へ進め! 革命が 戦場へ呼んでいる

シベリアの森からバルト海、赤軍に勝る者はなし

  

  力強く 握るこぶし 銃をもて 隊伍組め 

  我ら皆 怒涛のように 最後の決戦へ進め!

 

  (繰返し)

 
3.
Белая армия,чёрный барон
Снова готовят нам царский трон,
Но от тайги до британских морей
Красная Армия всех сильней.

  Так пусть же Красная
  Сжимает властно
  Свой штык мозолистой рукой,
  И все должны мы
  Неудержимо
  Идти в последний смертный бой!

  Так пусть же Красная
  Сжимает властно
  Свой штык мозолистой рукой,
  И все должны мы
  Неудержимо
  Идти в последний смертный бой!

(和訳省略)

 

 訳詞は、元陸軍少佐Y氏の孫Yさんによる

 

この「赤軍に勝る者なし」は日本では、この歌は一般に「鐘がなれば」という題名にされているが、「鐘がなれば」の訳詞は、関鑑子のものである。

 

鐘がなれば我先に
我等は突き進む
シベリアの山 バルチック海
我等はつき進む


 鉄のように固き力
 鉄砲(つつ)をとれば 勝利
 我等は 平和のために
 団結する

 

関は、青年共産同盟の若者たちとともに、中央合唱団を設立、指揮者もつとめ、うたごえ運動の中心となった。なぜか、「鐘がなれば」の訳詞には赤軍も白軍も出てこない。

 

原文の詞は赤軍と白軍、黒男爵と対比した、分かりやすい歌詞である。 

なお、最後まで白軍が拠点にしたのは、シベリア沿海州で、このシベリア沿海州における白軍政権の崩壊で、内戦は終結した。「鐘が鳴れば」の訳詞に「シベリアの山」という言葉が出てくるが、それはあるいはシベリア沿海州を指しているものか。


その内戦状態のソ連に対し、当然ながら英米などの帝国主義勢力は干渉を行い、黒海沿岸への部隊派遣などを行うとともに、白軍に協力した。日本もその一つで、ソ連の成立に際して、シベリア出兵で干渉した。



結局、帝国主義列強からの支援にも関わらず、帝政時代からの旧勢力であり、ロシア民衆からの支持を得ることができない白軍は敗北。赤軍の勝利に終わり、1922年に全連邦ソビエト大会で国家樹立が宣言され、ソビエト社会主義共和国連邦が誕生した。

 

 <赤軍に勝る者なし:赤軍合唱団>

 

 

<赤軍に勝る者なし:漫画版>

 

 

 漫画版のYouTubeの動画は、意外に歌詞の内容をよくあらわしている。

 

  対ソ干渉戦をはねかえしたソ連の「満州の丘に立ちて」
 

ロシアと日本は、日露戦争で戦ったが、ソ連と日本も数回干戈を交えている。その日露戦争後の大きな戦いの一つが、ソ連へのシベリア出兵である。

 

実は日露戦争直後に作曲され、大いにロシアで流行していくつか歌詞が作られたようなのだが、シベリア出兵を契機にその内容での歌詞が付けられて、再び大いに人気を博し、されに太平洋戦争後にはベンチャーズが歌って世界的に大ヒットした曲がある。

 

「満州の丘に立ちて」(原題:На сопках Маньчжурии)である。作曲者は、ロシア軍の第 214 モクシャ連隊の軍楽隊長だったイリヤ・アレクセーイヴィチ・シャトロフ。

 

 <イリヤ・アレクセーイヴィチ・シャトロフ>

 

シャトロフ(1852-1952)は、ヴォロネージの下級軍人家庭の生まれで、軍楽隊でドラムとトランペットを学び、当時エカテリンブルクに駐屯していた第214 モクシャ歩兵連隊の軍楽隊長となっていた。

 

そのシャトロフたちの第 214 モクシャ連隊は奉天会戦に参加し、その悲惨な戦場体験から日露戦争の終戦後1906年に、戦友の死を悼んで作曲したのである。原題は「満州の丘のモクシャ連隊」。だから、これは軍歌というより、戦時歌謡である。

 

革命後、シャトロフは赤軍に入り、各地の軍楽隊を指導した。

 

 最初は歌詞がなく、いくつか歌詞が付けられたようである。そのなかには詩人のステファン・ペトロフが作詞したものもあったが、いずれも満洲の丘に眠る兵士たちを悼む詞であった。

 

ロシア革命後の干渉戦争で、日本がシベリア出兵した際、やはり日露戦争と同様の悲惨な戦いが展開された。これは日本帝国主義がロシア革命への干渉を行うために、英・米・仏・伊の列強とともに、1918年からシベリアに出兵したもので、領土的野心をもった日本軍は、1920年以降、他国の軍隊が撤兵したあとも駐屯し続け、最高時7万3000人の兵力を送ったものの、完全なる敗北であった。そして、世界世論の高まり、日本軍に蔓延した士気の低下や国内の撤兵気運もあって、最終的には多くの戦死者を出して撤退した。

 

この干渉戦争での日本軍との激しい戦闘とそれによる多くの犠牲は、ソ連の人々に、日露戦争後に流行した「満州の丘に立ちて」を思い起こさせた。

 

日本などのシベリア出兵に対し、ソ連が勝利した後の1926年、について、アレクセイ・イワノーヴィチ・マシストフがこの干渉戦争で倒れた兵士を悼む歌詞を発表、「満州の丘に立ちて」は再びロシア人たちに愛唱されるようになったという。

 

満州の丘に立ちて  (1906)

 

На сопках Маньчжурии

 

作詞:アレクセイ・イワノーヴィチ・マシストフ

作曲:イリヤ・アレクセーイヴィチ・シャトロフ

 

 

<満州の丘に立ちて>

 

 

どういう訳か、この歌はベンチャーズの「さすらいのギター」として再び脚光をあびることになった。日本では1971年(昭和46年)に、そのレコードが発売されている。したがって、今では「満州の丘に立ちて」ではなく、「さすらいのギター」としてこの曲を知っている人の方が多いかもしれない。

 

 日本を中心とした帝国主義列強の干渉をはねのけ、社会主義建設を行っていったソ連であるが、一方においてスターリンの専制は強まり、特にスターリンの民族政策は大ロシア民族主義のごとく、ソビエト連邦を構成する各共和国の民族の自由意思を尊重せず、民主的諸原則が踏みにじられた。1940年のヒトラーとの秘密協定に基づくバルト三国の併合は、その最たるものである。

同時に、スターリンは1934年のキーロフ暗殺事件を「反革命分子」の仕業としてカーメネフ、ブハーリンをはじめとする古参の革命家、運動家、レーニン以来の幹部を次々に逮捕、処刑するなど、政府内部や赤軍においても「粛清」の嵐が吹き荒れることになった。この驚愕の事実は、スターリン死後、いわゆる「スターリン批判」としてフルシチョフによって暴露されることになる。

そういう状況においても、ソビエト赤軍は周辺の帝国主義国の軍隊と対峙し続け、特に第二次世界大戦ではヒットラー・ドイツと激しく戦い、ソ連の中枢であるモスクワ、サンクトペテルブルク(レニングラード)という主要都市をめぐって攻防戦を展開した。

 

 

歌詞の中に「サムライ」が出てくる「三人の戦車兵」

 

「三人の戦車兵」は、1938年、すなわちノモンハン事件の前年に作られた、対日戦の歌である。1938年は昭和でいえば昭和13年であるが、ちょうどその時期、張鼓峰事件が起きており、それに取材したものと言われる。

これは戦時歌謡であるが、もともとは映画音楽である。

 

三人の戦車兵  (1938年)

Три танкиста

作詞:ボリス・ラスキン

作曲:ポクラス兄弟

 

 

国境の空、黒い雲が立ち込め、大地は静まり返える。崖になった川岸には、歩哨の兵士が立っている、というような出だしで始まり、日本軍が渡河することを決めた、それを迎え撃つ我々国境警備の機甲攻撃大隊の兵、云々とあり、大隊の三人の戦車兵は、戦車に搭乗し、渡河する日本軍を迎撃し、これを撃滅したというような内容である。

曲調はあくまで明るく、これが戦時歌謡だろうかと思うほどである。

歌詞の中でсамураи(サムライ)という言葉が出てくるが、日本兵のことである。日本兵は「サムライ」と呼ばれ、その通り発音される。日本兵を「サムライ」というのは、一定の経緯を払っているのか、それとも日本という国が理解できておらず、いまだにサムライがいると思っているのだろうか。

現実でもこの歌のような戦車兵やその他多くのたちは、その後の大祖国戦争(第二次世界大戦)も戦い、そのなかから多くの犠牲者が出た。

 

<三人の戦車兵>

 

 

<女性歌手が歌う「三人の戦車兵」>

 

 

 いまだに毎年歌い続けられる軍歌

 

ソ連は世界で初めての社会主義国として生まれ、日本も含めた干渉戦争をはねのけ、大祖国戦争(第二次世界大戦)を勝ち抜いた。その勝利は、特に対独戦において、ナチスとの戦いの勝利、ファシズムに対する人民の勝利ということで、大きな価値をもつものであった。その間の様々な攻防戦については、ここで述べるまでもない。

 

勝利の日に献花するプーチン大統領と各国首脳>

 

出典:www.kremlin.ru より

 

しかし、戦後の冷戦時代、世界を二分して米ソ二大超大国が競い合うなどしたが、結局ソ連はその覇権主義ゆえに自壊した。ソ連にかわって、ロシア連邦が生まれ、政治体制もかわったが、かつてのソ連時代から戦後連綿と歌い継がれている軍歌がある。それは「勝利の日」。これは対独戦勝利の日(5月9日)の式典やパレードで歌われるまぎれもない軍歌である。

式典には、多くの大祖国戦争当時の元軍人たち、一般市民たちが参列し、「勝利の日」の歌声が流れると、思わず涙を流す人も多い。それは、戦時中のあまりに辛い労苦を思い出し、また勝利の感激を改めて感じるからであろう。

 

勝利の日  (1975)

День Победы

作詞:ハリトノフ
作曲:ダヴィド・トゥフマーノフ

 

 

 この「勝利の日」を歌っている歌手で代表的なのは、レフ・レシチェンコであるが、レシチェンコは元はオペラ歌手、ブレジネフに見いだされて「勝利の日」を歌うようになったらしい。毎年式典などで歌っているようで、2009年もクバン・コサック合唱団をバックに歌っていた。

ブレジネフたちが、1975年の大祖国戦争戦勝30周年記念のプロバガンダを行おうとしていたとき、戦勝30周年記念のために作られた「勝利の日」を歌うにふさわしい歌手をさがしていたのだが、父が戦争中の軍人で、オペラの世界では頭角を出していたレシチェンコがブレジネフたちの目にとまり、白羽の矢がたったのだという。甘いマスクとオペラで鍛えた歌声をもったレシチェンコが歌うと、「勝利の日」は爆発的に流行った。戦後生まれの軍歌ではあるが、軍歌でこれほどロシア民衆に親しまれているものはないだろう。

 

<勝利の日:歌手は若い頃のレフ・レシチェンコ>

 

 

 ソ連は、戦後の日本においても、少なからず日本と関わってきた。それは中国などよりも早く国交を回復したことや、貿易その他のことも大いに関係しているが、政治面でも社会党の一部政治家や活動家にフラクとでもいうべき集団をつくるなどの動きを行ったり、干渉を行ったことも含んで、影響を与えたといえる。フルシチョフ政権下、ソ連は部分的核実験停止条約の押しつけをはかり、1961年日本にミコヤンを派遣してあからさまな干渉を行うなどした。また、そもそも日本の北方領土を勝手に占有し、いまだに返還の協議のテーブルについていないことは大きな問題である。

 

そういう負の歴史もあるが、かつてソ連が行った反ファシズムの戦いについては、正当に評価すべきである。

 

<戦勝60周年の飾り(2005年、モスクワ)>

 

 

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