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             日本軍歌の虚実  |     
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                 JASRAC許諾番号 J121118816  | 
  『宮さん、宮さん』を嚆矢とする日本の軍歌 | 
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                 軍歌とは、そもそも何であろうか。基本的に軍歌とは軍隊で歌う歌であり、軍が定めた儀礼や演習、行軍などの際に歌うである。したがって、世間一般では歌われないような歌が多かった。部隊歌も、その一つであり、その部隊に所属しないものには関係なく、本来はあまりポピュラーなものではなかったということである。ところが、陸軍の飛行第六十四戦隊歌は、「加藤隼戦闘隊」の歌として映画の挿入歌になり、灰田勝彦の歌でレコードとなった。したがって、「加藤隼戦闘隊」は本来軍歌であるが、戦時歌謡のようでもある。戦時歌謡は映画の主題歌、挿入歌となったり、流行歌手が歌ったりして、世間に広められた歌である。 
 本来の軍歌で、「加藤隼戦闘隊」以外に有名であり、聞きやすいのは「海ゆかば」とか「日本陸軍」、「日本海軍」くらいであろう。部隊の歌もいろいろあるが、ローカルすぎて、その隊出身のものでなければ歌えないような歌ばかりである。「台湾軍の歌」は、台湾でおおいに広められ、今でも年配の台湾人のひとは日本語で歌うことができるが、それは例外である。 
 日本における軍歌のはしりは、「宮さん、宮さん」で始まるトンヤレ節である。  | 
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                 このトンヤレというのは、見ての通り「とことんやれ」が訛ったものである。 
 これは新政府軍側の軍歌であるが、やはり薩長中心に書かれている。実は、小生のじいさんは、尾張藩の藩卒だったらしく、刀を携え関東に出て行ったのだが、戦争に勝っても夢叶わず、故郷に帰らなかった。新政府側でも尾張藩の出る幕はどこにもなく、歌にある土・肥すら冷遇された。 「トンヤレ節」に対して徳川将軍家側は「ノーエ節」でこの「ノーエ」とは農兵が訛ったもの。どちらも、余り軍歌という感じはしない。  | 
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                 <トンヤレ節:佐倉時代まつり>  | 
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                 明治新政府が日本に近代的な軍制を敷いてから、つくられた軍歌は「抜刀隊」である。これは、西南戦争における警視庁抜刀隊の活躍を称えたものであるが、同時に日本で初めての洋式音楽ともいわれる。行進曲として編曲されたものは、陸軍が正式な行進曲として採用した。「扶桑歌」と合体された行進曲は、陸軍分列行進曲であり、昭和期になっても、式典などで演奏されている。これは、ややもすれば、自衛隊の音楽隊がいまだに演奏して、観閲式で行進などが行われる。  | 
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 この歌で不思議なのは、「敵の大将たる者は、古今無双の英雄で 之に従う兵は、共に慓悍決死の士 鬼神に恥ぬ勇あるも」と、かなり敵を差別せず、むしろ尊重していることである。敵の大将とは、西郷隆盛であろうが、なぜこうも持ち上げるのか不思議なくらいである。明治期の軍歌は、敵に対する敬意が感じられ、内容も割合客観的なものが多いようである。  | 
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                 <抜刀隊>  | 
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                 <陸軍分列行進曲>  | 
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  リアルな明治の軍歌の代表 「橘中佐」 | 
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 この「橘中佐」は、きわめて長大であるが、まことに臨場感あふれ、リアルに描かれている。それは、歌の作者が、生前の橘中佐と懇意で、よく知っていたということによるところが大きい。また、明治期の軍歌の一般的な特徴として、具体的な描写がされているということもある。 
 橘中佐は、名を橘周太といい、長崎県の出身。日露戦争、遼陽の戦いで首山堡の攻撃中に戦死。その時、陸軍歩兵第三四連隊第一大隊長で陸軍歩兵少佐であったが、死後特進して中佐。橘周太は以前は名古屋陸軍幼年学校の校長、その前は東宮武官などをしていて、いわば教育者のような人であり、人格円満にして教育熱心であり、薫陶を受けて戦死を悼む人多く、のちに銅像が建立された。橘中佐が大隊長を務めた歩兵第三四連隊は、通称「橘連隊」と称せられた。陸軍の橘中佐と海軍の広瀬中佐は、日露戦争での戦死後軍神とされ、大いに宣伝された。 
 この「橘中佐」の場合、彼我の陣営の様子、日本軍の総攻撃の命令、その後の戦闘、橘中佐が銃弾に倒れるまでの経緯と倒れてからの様子、救護する軍曹の活躍など、細かく描かれており、眼前にその光景が浮かぶようなのである。 
 この「橘中佐」が軍歌の中で好きだという人は多く、橘周太が東宮武官のときに直接教育した大正天皇がその一人であった。  | 
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                     みられるように、十一番で「名刀関の兼光が 鍔を砕きて弾丸は 腕をけずりさらにまた つづいて打ちこむ四つの弾」と最初五発腕などに被弾したことが分かり、十四番ではさらに炸裂した砲弾の破片が腰にあたっていた、十九番ではさらに一弾被弾し、 当たった弾丸が橘中佐の背を貫通して、橘中佐を背負っていた内田軍曹の胸を破ったとか、被弾した数や負傷した部位まで特定できる正確さである。 
 作詞者の鍵谷 徳三郎 は、橘周太が名古屋の幼年学校校長だったときに、文官教官であり、心底から橘周太に傾倒していたのである。その思いが、かくも長大、精緻な歌詞をつくらしめたような気がする。 
 この歌は、のちに静岡の陸軍歩兵第三四連隊の隊歌となった。  | 
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                     <橘中佐>  | 
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 一方、海軍では陸軍に先んじて、広瀬武夫海軍中佐を「軍神広瀬中佐」とした。広瀬武夫海軍中佐は、大分県出身で小学校教員を経て海兵を出て、日清戦争従軍後ロシアに留学している。その後ロシア駐在武官となるが、帰国後日露戦争が始まり、旅順港閉塞作戦に携わった。彼は、閉塞任務を終えた旅順港で乗船からボートで退避する途中、ロシア軍の砲弾に当たって絶命したのである。例の「杉野は何処、杉野はいずや」の「広瀬少佐」という文武省唄歌もできた。 
 しかし、海軍で軍歌として歌われた大和田建樹が作詞、納所弁次郎が作曲した別の「広瀬中佐」という歌があり、唱歌のほうと比べるとポピュラーではないが、近年の軍歌のレコード・CD集などにも収められてきた。  | 
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                 こちらも、弾の飛んでくるなかを「報国丸の船橋に忘れた剣を取りに行く」と、後の世の軍歌では決して書かないようなことまで書いていて、細かい描写となっている。しかし、ロシアに留学し、社交界も知っている広瀬中佐が「穢れし露兵」とは思っていなかっただろう。 なお、橘中佐が実際に戦闘のなかで被弾して亡くなったのに対し、歌詞でも分かるように広瀬中佐は退避途中で被弾したということであって、杉野兵曹長を捜していたという「美談」を加えている。当世の名作詞家、作曲家の作ではあるが、何となく「橘中佐」のほうがリアリティがあるように思う。 
 しかし、広瀬中佐も橘中佐も軍神とされたのは、不慮の戦死ということもあるが、軍当局は日露戦争の戦勝のシンボルを作りたかったのであろう。そして、偶然にも両中佐ともに教養人で周囲の人から尊敬されるような人物であり、軍当局が軍神とするのに都合がよかったという背景があったのである。 
 なお、「広瀬中佐」と同じ大和田建樹作詞で、小山作之助作曲の「四面海もて囲まれしわが『敷島』の『秋津洲』」で始まる「日本海軍」は、日露戦役当時の全軍艦の名前を歌詞のなかに入れている。  | 
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                     少し長いので、これ以上歌詞は紹介しない。もちろん、日清戦争で分捕った、「鎮遠」なども入っている。 これは、軍艦尽しとでもいうような構成であるが、このように明治期の軍歌はディテールへのこだわりがあるように思われる。  | 
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                     <日露戦争当時の旅順西港>  | 
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                     <日本海軍>  | 
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  「戦友」 | 
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                     「戦友」は一種特別な軍歌である。歌詞も、メロディーも、その他のものと比べると、明らかに別種のもので、鎮魂歌に近い。それも「国の鎮め」のような儀礼的なものではなく、兵隊の心情がよくあらわれている。 これは、1905年(明治38年)に作られた。軍隊からではなく、一般からはやったが、やがて軍隊内にも流行していった。真下飛泉が作詞しているが、奉天会戦に従軍した人からそのあまりに悲惨な戦場の様子を聞いて、この歌の詞を書いたという。また、四番の歌詞「軍律厳しい中なれど」を歌うことは、陸軍の軍規違反であるとして軍当局からクレームをつけられ、「硝煙渦巻く中なれど」に替えて歌われることが多かった。 「戦友」を厭戦の歌とするむきもあり、軍隊では太平洋戦争中は表立っては歌われなくなった。  | 
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                     この詞をよんでいると、与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」を思い出す。 しかし、実際の与謝野晶子や夫鉄幹のその後の作詞活動をみると、与謝野鉄幹は「爆弾三勇士の歌」という、事故を美談にすりかえた詞を書いているし、与謝野晶子も晩年には軍国主義に迎合する歌を『白櫻集』にのせている。  | 
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  次第に粉飾ばかりになる日本の軍歌 | 
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                     関東軍は、中国東北部にあって、陸軍のなかでも精鋭部隊と言われてきた。そして謀略を含めて勝手に満州事変をはじめ、中国大陸での戦線を無闇に拡大する要因をつくった。関東軍は、結局太平洋戦争に突入すると主力は南方に回されるなどして換骨奪胎され、最終的にはソ連が参戦するや、旧満州にいた開拓団ほかの民間人を残して、さっさと撤退し、多くの邦人の犠牲を生じせしめた悪名を今に残している。 この関東軍の軍歌は、やたらに威勢が良い。これは、1935年(昭和10年)末に公募され、翌1936年(昭和11年)3月10日の陸軍記念日に発表されたもの。作詞者は関東軍嘱託で、作曲者も戸山学校の軍楽隊だというから、あまり公募になっていない。 また、歌詞にあるように「東亜の護り関東軍」などと言われても、終戦直前の関東軍の行動を知っている我々からみれば、空しい限りである。 正式な軍歌だけでなく、戦時歌謡も含めて、昭和期の十五年戦争と言われる時期に入ったものは、何か誇張的で空々しく感じられるのだが、如何に。 
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                     その他、前述した「爆弾三勇士の歌」の類が、軍歌、戦時歌謡含めてたくさんある。「爆弾三勇士の歌」では、偶発的な事故にも関わらず、三人の工兵が肉弾もろとも敵の鉄条網を突破したことになっており、如何に士気を鼓舞するとはいえ、まやかしはいかんと思う。個々の戦闘では、負けたりしても、その話は緘口令がしかれて語られず、逆に威勢のいい話が新聞紙面を賑わせる。 かくして、日本は無敵である、神国であるという妄想に、殆ど全国民が取りつかれていたのだ。 太平洋戦争が始まった1941年(昭和16年)には、あの山田耕筰作曲の「なんだ空襲」という戦時歌謡が発表されたが、これなどは空襲の悲惨さを後で体験した人からみれば、非常な反感を覚えるような、空襲の恐ろしさを軽視した歌である。 「焼夷弾なら 馴れ子の火の粉だよ 最初一秒 ぬれむしろ かけてかぶせて砂で消す」とか「さほどでもない毒瓦斯よ」といった文句が、実際に焼夷弾が何発もの子弾でできて周囲に飛散し、とてもむしろで消せる代物でない、毒ガスなど陸軍習志野学校での遺棄ガスで死んだ者もいるということを知っている我々からは、非常に馬鹿げた歌詞である。 
 要は、今にして思えば空疎な歌詞が有名作詞家によってつくられ、それが勇ましいメロディーにのって流されていたのである。  | 
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                     よくあることですが、上記YouTubeの歌詞も間違っています。正しい歌詞は、「焼夷弾なら馴れこの火の粉だよ」のところ、「焼夷弾なら護れこの火の粉だよ」と書き間違っています。  | 
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                     戦時中は、学業を途中で放棄させられ、軍需工場等に勤労動員された若者も多かった。その象徴であるのが、「あゝ紅の血は燃ゆる」。 1944年(昭和19年)9月に日蓄レコード(現在のコロムビアレコード)から発売された、軍需省推薦の戦時歌謡である。 野村俊夫作詞、明本京静作曲、奥山貞吉編曲で、日蓄では酒井弘、安西愛子が歌った。 
 「花も蕾の若桜 五尺の生命ひっさげて 国の大事に殉ずるは 我等学徒の面目ぞ ああ紅の血は燃ゆる」 
 戦後、鶴田浩二が好んで歌って有名になった。しかし、実際は、歌詞にあるような勇ましさ、潔さは、国家によって巧みに演出されたものであることは、終戦後明白になった。戦時中の若者の純粋な奉仕にも関わらず、戦後になると、多くの高級将校が軍需物資を隠匿したり、持ち逃げしたりしたのである。  | 
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                     <あゝ紅の血は燃ゆる>  | 
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  本音を吐露した兵隊ソング | 
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                     軍歌というジャンルではないが、軍人が歌った歌に、いわゆる兵隊ソングがある。これは「いやじゃありませんか軍隊は」の「軍隊小唄」とか「可愛いスーちゃん」というような類である。こういう歌は、人間的であり、本音を吐露したものといえる。なかには、多分に猥雑なものもあるが、四角四面の鋳型にはめられた環境からして、やむをえないものもある。 海軍では「海軍小唄」、すなわちズンドコ節であるが、のちにテレビ番組などで大いにはやった。しかし、節が若干違う。ただ、小林旭のズンドコ節よりは、ドリフターズのほうが原型に近い。囃しの部分をかえれば、ほぼそのままである。 一般には、以下のような歌詞である。 汽車の窓から 手をにぎり送ってくれた 人よりも ホームの陰で 泣いていた 可愛いあの娘が 忘られぬ トコズンドコ ズンドコ 語ってくれた 人よりも 港のすみで 泣いていた 可愛いあの娘が 目に浮かぶ トコズンドコ ズンドコ 送ってくれた 人よりも 涙のにじむ 筆のあと いとしいあの娘が 忘られぬ トコズンドコ ズンドコ このズンドコ節は、予科練などで歌うのは、十年早いと言われそうであったが、実施部隊では結構歌われていた。それも部隊ごとに歌詞が違うのである。 以下は愛知県の河和海軍航空隊の例。 ここで別れちゃ 未練がのこる   せめて河和の 駅までも 送りましょうか 送られましょか 可愛いあの娘の 目に涙 今日も暮れゆく 河和の町を 肩で風切る 小意気なすがた あいつは誰だと よくよく見れば 上陸がえりの 士官さん エスになるなよ 堅気になれと やさし母ちゃんが 泣いて言うた だけど私は 堅気にゃなれぬ 可愛いインチに 会えぬもの 註) エス:海軍の隠語で芸者のこと インチ:御馴染さんの意味、ここでは航空隊員のこと 
                    
 上記歌詞は、読売新聞(1983年8月15日)に掲載された故・黒田健二郎氏(一期予備生徒として東京の大学から河和海軍航空隊に配属)の文による。  | 
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                     <海軍小唄(ズンドコ節)>  | 
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                     参考文献: 軍歌「戦友」 井伏鱒二 参考サイト: ブログ御塩倶楽部  | 
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