日本軍歌の虚実

 

JASRAC許諾番号 J121118816


 『宮さん、宮さん』を嚆矢とする日本の軍歌

 

軍歌とは、そもそも何であろうか。基本的に軍歌とは軍隊で歌う歌であり、軍が定めた儀礼や演習、行軍などの際に歌うである。したがって、世間一般では歌われないような歌が多かった。部隊歌も、その一つであり、その部隊に所属しないものには関係なく、本来はあまりポピュラーなものではなかったということである。ところが、陸軍の飛行第六十四戦隊歌は、「加藤隼戦闘隊」の歌として映画の挿入歌になり、灰田勝彦の歌でレコードとなった。したがって、「加藤隼戦闘隊」は本来軍歌であるが、戦時歌謡のようでもある。戦時歌謡は映画の主題歌、挿入歌となったり、流行歌手が歌ったりして、世間に広められた歌である。

 

本来の軍歌で、「加藤隼戦闘隊」以外に有名であり、聞きやすいのは「海ゆかば」とか「日本陸軍」、「日本海軍」くらいであろう。部隊の歌もいろいろあるが、ローカルすぎて、その隊出身のものでなければ歌えないような歌ばかりである。「台湾軍の歌」は、台湾でおおいに広められ、今でも年配の台湾人のひとは日本語で歌うことができるが、それは例外である。

 

日本における軍歌のはしりは、「宮さん、宮さん」で始まるトンヤレ節である。

 

トンヤレ節

 

作詞:品川弥二郎

作曲:大村益次郎

 

一、

宮さん宮さん お馬の前に
ひらひらするのは何じゃいな
トコトンヤレトンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの
錦の御旗じゃ知らないか
トコトンヤレトンヤレナ

 

二、

一天万乗の帝王(みかど)に 手向かいする奴を
トコトンヤレトンヤレナ
ねらい外さず どんどん撃ち出す薩長土
トコトンヤレトンヤレナ

 

三、

伏見 鳥羽 淀 橋本 葛葉の戦いは
トコトンヤレトンヤレナ
薩土長肥の 合うたる手際じゃないかいな
トコトンヤレトンヤレナ

 

四、

音に聞こえし関東武士
どっちへ逃げたと 問うたれば
トコトンヤレトンヤレナ
城も気概も捨てて 吾妻へ逃げたげな
トコトンヤレトンヤレナ

 

五、

国を追うのも 人を殺すも
誰も本意じゃないけれど
トコトンヤレトンヤレナ
薩長土の先手に 手向いする故に
トコトンヤレトンヤレナ

 

六、

雨の降るよな 鉄砲の玉の来る中に
トコトンヤレトンヤレナ
命惜しまず魁するのも 皆お主の為故じゃ
トコトンヤレトンヤレナ

 

 

このトンヤレというのは、見ての通り「とことんやれ」が訛ったものである。

 

これは新政府軍側の軍歌であるが、やはり薩長中心に書かれている。実は、小生のじいさんは、尾張藩の藩卒だったらしく、刀を携え関東に出て行ったのだが、戦争に勝っても夢叶わず、故郷に帰らなかった。新政府側でも尾張藩の出る幕はどこにもなく、歌にある土・肥すら冷遇された。

「トンヤレ節」に対して徳川将軍家側は「ノーエ節」でこの「ノーエ」とは農兵が訛ったもの。どちらも、余り軍歌という感じはしない。

 

<トンヤレ節:佐倉時代まつり>

 

 

明治新政府が日本に近代的な軍制を敷いてから、つくられた軍歌は「抜刀隊」である。これは、西南戦争における警視庁抜刀隊の活躍を称えたものであるが、同時に日本で初めての洋式音楽ともいわれる。行進曲として編曲されたものは、陸軍が正式な行進曲として採用した。「扶桑歌」と合体された行進曲は、陸軍分列行進曲であり、昭和期になっても、式典などで演奏されている。これは、ややもすれば、自衛隊の音楽隊がいまだに演奏して、観閲式で行進などが行われる。

 

抜刀隊

 

作詞:外山正一

作曲:シャルル・ルルー

 

一、
我は官軍我敵は、天地容れざる朝敵ぞ
敵の大将たる者は、古今無双の英雄で
之に従う兵は、共に慓悍決死の士
鬼神に恥ぬ勇あるも、天の許さぬ反逆を
起こしし者は昔より、栄えし例あらざるぞ
※敵の亡ぶる夫迄は、進めや進め諸共に
 玉散る剣抜き連れて、死ぬる覚悟で進むべし

二、
皇国の風と武士の、其身を護る霊(たましい)の
維新このかた廃れたる、日本刀(やまとがたな)の今更に
又世に出ずる身の誉、敵も身方も諸共に
刃の下に死ぬべきぞ、大和魂ある者の
死ぬべき時は今なるぞ、人に後れて恥かくな
※再唱

三、
前を望めば剣なり、右も左りも皆剣
剣の山に登らんは、未来の事と聞きつるに
此世に於て目(ま)のあたり、剣の山に登るのも
我身のなせる罪業を、滅す為にあらずして
賊を征伐するが為、剣の山もなんのその
※再唱

四、
剣の光ひらめくは、雲間に見ゆる稲妻か
四方に打出す砲声は、天に轟く雷か
敵の刃に伏す者や、丸(たま)に砕けて玉の緒の
絶えて墓なく失する身の、屍は積みて山をなし
其血は流れて川をなす、死地に入るのも君が為
※再唱

五、
弾丸雨飛の間にも、二つなき身を惜まずに
進む我身は野嵐に、吹かれて消ゆる白露の
墓なき最後とぐるとも、忠義の為に死ぬる身の
死にて甲斐あるものならば、死ぬるも更に怨なし
我と思わん人たちは、一歩も後へ引くなかれ
※再唱

六、
我今茲に死ん身は、君の為なり国の為
捨つべきものは命なり、仮令い屍は朽ちぬとも
忠義の為に捨る身の、名は芳しく後の世に
永く伝えて残るらん、武士と生れた甲斐もなく
義もなき犬と言わるるな、卑法者となそしられそ
※再唱

 

この歌で不思議なのは、「敵の大将たる者は、古今無双の英雄で 之に従う兵は、共に慓悍決死の士 鬼神に恥ぬ勇あるも」と、かなり敵を差別せず、むしろ尊重していることである。敵の大将とは、西郷隆盛であろうが、なぜこうも持ち上げるのか不思議なくらいである。明治期の軍歌は、敵に対する敬意が感じられ、内容も割合客観的なものが多いようである。

 

<抜刀隊

 

 

<陸軍分列行進曲>

 

 

 リアルな明治の軍歌の代表 「橘中佐」
 

この「橘中佐」は、きわめて長大であるが、まことに臨場感あふれ、リアルに描かれている。それは、歌の作者が、生前の橘中佐と懇意で、よく知っていたということによるところが大きい。また、明治期の軍歌の一般的な特徴として、具体的な描写がされているということもある。

 

橘中佐は、名を橘周太といい、長崎県の出身。日露戦争、遼陽の戦いで首山堡の攻撃中に戦死。その時、陸軍歩兵第三四連隊第一大隊長で陸軍歩兵少佐であったが、死後特進して中佐。橘周太は以前は名古屋陸軍幼年学校の校長、その前は東宮武官などをしていて、いわば教育者のような人であり、人格円満にして教育熱心であり、薫陶を受けて戦死を悼む人多く、のちに銅像が建立された。橘中佐が大隊長を務めた歩兵第三四連隊は、通称「橘連隊」と称せられた。陸軍の橘中佐と海軍の広瀬中佐は、日露戦争での戦死後軍神とされ、大いに宣伝された。

 

この「橘中佐」の場合、彼我の陣営の様子、日本軍の総攻撃の命令、その後の戦闘、橘中佐が銃弾に倒れるまでの経緯と倒れてからの様子、救護する軍曹の活躍など、細かく描かれており、眼前にその光景が浮かぶようなのである。

 

この「橘中佐」が軍歌の中で好きだという人は多く、橘周太が東宮武官のときに直接教育した大正天皇がその一人であった。

橘中佐

 

作詞:鍵谷 徳三郎

作曲:安田 俊高  

(上)

 

一、
遼陽城頭夜は闌(た)けて
有明月(ありあけづき)の影すごく
霧立ちこむる高梁の
中なる塹壕声絶えて
目醒め勝ちなる敵兵の
胆驚かす秋の風

二、
わが精鋭の三軍を
邀撃せんと健気にも
思い定めて敵将が
集めし兵は二十万
防禦至らぬ隅もなく
決戦すとぞ聞えたる

三、
時は八月末つ方
わが籌略は定まりて
総攻撃の命下り
三軍の意気天を衝く
敗残の将いかでかは
正義に敵する勇あらん

四、
「敵の陣地の中堅ぞ
まず首山堡を乗っ取れ」と
三十日の夜深く
前進命令忽ちに
下る三十四聯隊
橘大隊一線に

五、
漲る水を千仭の
谷に決する勢か
巌を砕く狂瀾の
躍るに似たる大隊は
彩雲たなびく明の空
敵塁近く攻め寄せぬ

六、
斯くと覚りし敵塁の
射注ぐ弾の烈しくて
先鋒数多(あまた)斃るれば
隊長怒髮天を衝き
「予備隊続け」と太刀を振り
獅子奮迅と馳せ登る

七、
剣戟摩して鉄火散り
敵の一線まず敗る
隊長咆吼躍進し
卒先塹壕飛び越えて
閃電敵に切り込めば
続く決死の数百名

八、
敵頑強に防ぎしも
遂に堡塁(とりで)を奪いとり
万歳声裡日の御旗
朝日に高くひるがえし
刃を拭う暇もなく
彼れ逆襲の鬨の声

九、
十字の砲火雨のごと
よるべき地物更になき
この山上に篠つけば
一瞬変転ああ悲惨
伏屍累々山を被い
鮮血漾々(ようよう)壕に満つ

十、
折しも喉を打ちぬかれ
倒れし少尉川村を
隊長躬ら提(ひっさ)げて
壕の小蔭に繃帯し
再び向う修羅の道
ああ神なるか鬼なるか

十一、
名刀関の兼光が
鍔を砕きて弾丸は
腕をけずりさらにまた
つづいて打ちこむ四つの弾
血煙さっと上れども
隊長さらに驚かず

十二、
厳然として立ちどまり
なおわが兵を励まして
「雌雄を決する時なるぞ
この地を敵に奪わるな
とくうち払へこの敵」と
天にも響く下知の声

十三、
衆をたのめる敵兵も
雄たけび狂うわが兵に
つきいりかねて色動き
浮足立てし一刹那
爆然敵の砲弾は
裂けぬ頭上に雷のごと

十四、
辺りの兵にあびせつつ
弾はあられとたばしれば
打ち倒されし隊長は
「無礼ぞ奴(うぬ)」と力こめ
立たんとすれど口惜しや
腰は破片に砕かれぬ

十五、
「隊長傷は浅からず
暫しここに」と軍曹の
壕に運びていたわるを
「否みよ内田浅きぞ」と
戎衣(じゅうい)をぬげば紅の
血潮淋漓迸(ほとばし)る

十六、
中佐はさらに驚かで
「隊長われはここにあり
受けたる傷は深からず
日本男子の名を思い
命の限り防げよ」と
部下を励ます声高し

十七、
寄せては返しまた寄する
敵の新手を幾度か
打ち返ししもいかにせん
味方の残兵少きに
中佐はさらに命ずらく
「軍曹銃をとって立て」

十八、
軍曹やがて立ちもどり
「辛くも敵は払えども
防ぎ守らん兵なくて
この地を占めん事難し
後援きたるそれまで」と
中佐を負いて下りけり

十九、
屍ふみ分け壕をとび
刀を杖に岩をこえ
ようやく下る折も折
虚空を摩して一弾は
またも中佐の背をぬきて
内田の胸を破りけり

(下)

一、
嗚呼々々悲惨参の極
父子相抱く如くにて
ともに倒れし将と士が
山川(さんせん)震う勝鬨に
息吹き返し見返れば
山上すでに敵の有

二、
飛び来る弾の繁ければ
軍曹ふたたび起き上り
無念の一涙払いつつ
中佐を扶けて山の影
たどり出でたる松林
僅に残る我が味方

三、
阿修羅の如き軍神の
風発叱咤(ふうはつしった)今絶えて
血に染む眼打ち開き
日出ずる国の雲千里
千代田の宮を伏し拜み
中佐畏み奏すらく

四、
「周太が嘗て奉仕せし
儲(もうけ)の君の畏くも
生れ給いしよき此の日
逆襲うけて遺憾にも
将卒あまた失いし
罪はいかでか逃るべき

五、
さはさりながら武士の
とり佩く太刀は思うまま
敵の血汐に染めにけり
臣が武運はめでたくて
只今ここに戦死す」と
言々(げんげん)悲痛 声凛凛(りんりん)

六、
中佐は更にかえりみて
「わが戦況はいまいかに
聯隊長は無事なるか」
「首山堡すでに手に入りて
関谷大佐は討死」と
聞くも語るも血の涙

七、
わが凱歌(かちどき)の声かすか
四辺(あたり)に銃(つつ)の音絶えて
夕陽(せきよう)遠く山に落ち
天籟闃寂(てんらいげきじゃく)静まれば
闇の帳に包まれて
あたりは暗し小松原

八、
朝な夕なを畏くも
打ち誦じたる大君の
勅諭(みこと)のままに身を捧げ
高き尊き聖恩に
答え奉れる隊長の
終焉(いまわ)の床に露寒し

九、
負いし痛手の深ければ
情手厚き軍曹の
心尽しも甲斐なくて
英魂此処に止まらねど
中佐は過去を顧みて
終焉の笑(えみ)をもらしけん

十、
君身を持して厳なれば
挙動に規矩(きく)を失わず
職を奉じて忠なれば
功績常に衆を抜き
君交わりて信なれば
人は鑑と敬いぬ

十一、
忠肝義胆才秀で
勤勉刻苦 学勝(すぐ)れ
情は深く勇を兼ね
花も實もある武士の
君が終焉の言(ことば)には
千載誰か泣かざらん

十二、
花潔く散り果てて
護国の鬼と盟(ちか)いてし
君軍神とまつられぬ
忠魂義魂後の世の
人の心を励まして
武運は永久に尽きざらん

十三、
国史伝うる幾千年
ここに征露の師を起す
史(ふみ)繙(ひもと)きて見る毎に
わが日の本の国民よ
花橘の薫にも
偲べ軍神中佐をば

 

みられるように、十一番で「名刀関の兼光が 鍔を砕きて弾丸は 腕をけずりさらにまた つづいて打ちこむ四つの弾」と最初五発腕などに被弾したことが分かり、十四番ではさらに炸裂した砲弾の破片が腰にあたっていた、十九番ではさらに一弾被弾し、 当たった弾丸が橘中佐の背を貫通して、橘中佐を背負っていた内田軍曹の胸を破ったとか、被弾した数や負傷した部位まで特定できる正確さである。

 

作詞者の鍵谷 徳三郎 は、橘周太が名古屋の幼年学校校長だったときに、文官教官であり、心底から橘周太に傾倒していたのである。その思いが、かくも長大、精緻な歌詞をつくらしめたような気がする。

 

この歌は、のちに静岡の陸軍歩兵第三四連隊の隊歌となった。

 

<橘中佐>

 

 

一方、海軍では陸軍に先んじて、広瀬武夫海軍中佐を「軍神広瀬中佐」とした。広瀬武夫海軍中佐は、大分県出身で小学校教員を経て海兵を出て、日清戦争従軍後ロシアに留学している。その後ロシア駐在武官となるが、帰国後日露戦争が始まり、旅順港閉塞作戦に携わった。彼は、閉塞任務を終えた旅順港で乗船からボートで退避する途中、ロシア軍の砲弾に当たって絶命したのである。例の「杉野は何処、杉野はいずや」の「広瀬少佐」という文武省唄歌もできた。

 

しかし、海軍で軍歌として歌われた大和田建樹が作詞、納所弁次郎が作曲した別の「広瀬中佐」という歌があり、唱歌のほうと比べるとポピュラーではないが、近年の軍歌のレコード・CD集などにも収められてきた。

 

広瀬中佐

作詞:大和田建樹
作曲:納所弁次郎

一、
一言一行潔く
日本帝国軍人の
鑑を人に示したる
広瀬中佐は死したるか

二、
死すとも死せぬ魂は
七たびこの世に生れ来て
国のめぐみに報いんと
歌いし中佐は死したるか

三、
我は神洲男児なり
穢れし露兵の弾丸に
当るものかと壮語せし
ますら武夫は死したるか

四、
国家(くに)に捧げし丈夫の身
一死は期したる事なれど
旅順陥落見も果てぬ
憾みは深し海よりも

五、
敵弾礫と飛び来る
報国丸の船橋に
忘れし剣を取りに行く
その沈勇は神なるか

六、
閉塞任務事終わり
ひらりと飛び乗るボートにて
竿先高くひらめかす
ハンカチーフに風高し

七、
逆巻く波と弾丸の
間に身をば置きながら
神色自若帰り来し
中佐の身体は皆胆か

八、
再度の成功期せんとて
時は弥生の末つ方
中佐は部下ともろ共に
勇みて乗り込む福井丸

九、
天晴れ敵の面前に
日本男子の名乗して
卑怯の肝をひしがんと
誓ひし事の雄々しさよ

十、
かくて沈没功なりて
収容せられし船の内
杉野兵曹見えざれば
中佐の憂慮ただならず

十一、
又立ちかえり三度まで
見めぐる船中影もなく
答うるものは甲板の
上まで浸す波の声

十二、
詮方無くて乗り移る
ボートの上に飛びくるは
敵の打ち出す一巨弾 
あなや中佐は撃たれたり 

十三、
古今無双の勇将を
世に失ひしは惜しけれど
死して無数の国民を
起たせし功は幾許ぞ 

十四、
屍は海に沈めても
赤心とどめて千歳に
軍の神と仰がるる
広瀬中佐は猶死せず

 

 こちらも、弾の飛んでくるなかを「報国丸の船橋に忘れた剣を取りに行く」と、後の世の軍歌では決して書かないようなことまで書いていて、細かい描写となっている。しかし、ロシアに留学し、社交界も知っている広瀬中佐が「穢れし露兵」とは思っていなかっただろう。

なお、橘中佐が実際に戦闘のなかで被弾して亡くなったのに対し、歌詞でも分かるように広瀬中佐は退避途中で被弾したということであって、杉野兵曹長を捜していたという「美談」を加えている。当世の名作詞家、作曲家の作ではあるが、何となく「橘中佐」のほうがリアリティがあるように思う。

 

しかし、広瀬中佐も橘中佐も軍神とされたのは、不慮の戦死ということもあるが、軍当局は日露戦争の戦勝のシンボルを作りたかったのであろう。そして、偶然にも両中佐ともに教養人で周囲の人から尊敬されるような人物であり、軍当局が軍神とするのに都合がよかったという背景があったのである。

 

なお、「広瀬中佐」と同じ大和田建樹作詞で、小山作之助作曲の「四面海もて囲まれしわが『敷島』の『秋津洲』」で始まる「日本海軍」は、日露戦役当時の全軍艦の名前を歌詞のなかに入れている。

 

日本海軍

 

作詞:大和田建樹
作曲:小山作之助

 

一、

四面海もて囲まれし わが「敷島」の「秋津洲」

外なる敵を防ぐには  陸に砲台 海に艦(ふね)

 

二、

屍を浪に沈めても  引かぬ忠義の丈夫が

守る心の甲鉄艦  如何で容易く破られん

 

三、

名は樣々に分かれても  建つる勳は「富士」の嶺の 

雪に輝く「朝日」影  「扶桑」の空を照らすなり

 

(以下、略)

 

少し長いので、これ以上歌詞は紹介しない。もちろん、日清戦争で分捕った、「鎮遠」なども入っている。

これは、軍艦尽しとでもいうような構成であるが、このように明治期の軍歌はディテールへのこだわりがあるように思われる。

 

<日露戦争当時の旅順西港>

 

 

 

 <日本海軍>

 

 

 

 「戦友」

 

「戦友」は一種特別な軍歌である。歌詞も、メロディーも、その他のものと比べると、明らかに別種のもので、鎮魂歌に近い。それも「国の鎮め」のような儀礼的なものではなく、兵隊の心情がよくあらわれている。

これは、1905年(明治38年)に作られた。軍隊からではなく、一般からはやったが、やがて軍隊内にも流行していった。真下飛泉が作詞しているが、奉天会戦に従軍した人からそのあまりに悲惨な戦場の様子を聞いて、この歌の詞を書いたという。また、四番の歌詞「軍律厳しい中なれど」を歌うことは、陸軍の軍規違反であるとして軍当局からクレームをつけられ、「硝煙渦巻く中なれど」に替えて歌われることが多かった。

「戦友」を厭戦の歌とするむきもあり、軍隊では太平洋戦争中は表立っては歌われなくなった。

 

戦友

作詞: 真下飛泉

作曲: 三善和気

 

一、

ここはお国を何百里 離れて遠き満州の

赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下

 

二、

思えばかなし昨日まで 真先駈けて突進し

敵を散々懲らしたる 勇士はここに眠れるか

 

三、

ああ戦の最中に 隣りに居ったこの友の

俄かにはたと倒れしを 我はおもわず駆け寄って

 

四、

軍律きびしい中なれど これが見捨てて置かりょうか

「しっかりせよ」と抱き起し 仮繃帯も弾丸の中

 

五、

折から起る突貫に 友はようよう顔あげて

「お国の為だかまわずに 後れてくれな」と目に涙

 

六、

あとに心は残れども 残しちゃならぬこの体

「それじゃ行くよ」と別れたが 永の別れとなったのか

 

七、

戦すんで日が暮れて さがしにもどる心では

どうぞ生きて居てくれよ ものなど言えと願うたに

 

八、

空しく冷えて魂は くにへ帰ったポケットに

時計ばかりがコチコチと 動いて居るも情なや

 

九、

思えば去年船出して お国が見えずなった時

玄海灘に手を握り 名を名乗ったが始めにて

 

十、

それより後は一本の 煙草も二人わけてのみ

ついた手紙も見せ合うて 身の上話くりかえし

 

十一、

肩を抱いては口ぐせに どうせ命はないものよ

死んだら骨を頼むぞと 言いかわしたる二人仲

 

十二、

思いもよらず我一人 不思議に命ながらえて

赤い夕日の満州に 友の塚穴掘ろうとは

 

十三、

くまなく晴れた月今宵 心しみじみ筆とって

友の最期をこまごまと 親御へ送るこの手紙

 

十五、

筆の運びはつたないが 行燈のかげで親達の

読まるる心おもいやり 思わずおとす一雫

 

 

この詞をよんでいると、与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」を思い出す。

しかし、実際の与謝野晶子や夫鉄幹のその後の作詞活動をみると、与謝野鉄幹は「爆弾三勇士の歌」という、事故を美談にすりかえた詞を書いているし、与謝野晶子も晩年には軍国主義に迎合する歌を『白櫻集』にのせている。

 

<戦友>

 

 

 次第に粉飾ばかりになる日本の軍歌

 

 関東軍は、中国東北部にあって、陸軍のなかでも精鋭部隊と言われてきた。そして謀略を含めて勝手に満州事変をはじめ、中国大陸での戦線を無闇に拡大する要因をつくった。関東軍は、結局太平洋戦争に突入すると主力は南方に回されるなどして換骨奪胎され、最終的にはソ連が参戦するや、旧満州にいた開拓団ほかの民間人を残して、さっさと撤退し、多くの邦人の犠牲を生じせしめた悪名を今に残している。

この関東軍の軍歌は、やたらに威勢が良い。これは、1935年(昭和10年)末に公募され、翌1936年(昭和11年)3月10日の陸軍記念日に発表されたもの作詞者は関東軍嘱託で、作曲者も戸山学校の軍楽隊だというから、あまり公募になっていない。

また、歌詞にあるように「東亜の護り関東軍」などと言われても、終戦直前の関東軍の行動を知っている我々からみれば、空しい限りである。

 正式な軍歌だけでなく、戦時歌謡も含めて、昭和期の十五年戦争と言われる時期に入ったものは、何か誇張的で空々しく感じられるのだが、如何に。

関東軍軍歌

作詞:関東軍
作曲:陸軍軍楽隊

一、
暁雲の下 見よはるか
起伏果なき 幾山河
わが精鋭が その威武に
盟邦の民 いま安し
栄光に満つ 関東軍

 

二、
興安嶺下 見よ広野
父祖が護国の 霊ねむり
いま同胞が 生命を
正義に託す 新天地
前衛に立つ 関東軍

 

三、
烈々の士気 見よ歩武を
野ゆき山ゆき 土に臥し
寒熱何ぞ 死を越えて
挺身血湧く 真男児
風雲に侍す 関東軍

 

四、
北斗の星座 見よ使命
暗雲天を とざすとも
神与の剣 ひらめけば
妖魔散じて 影空し
東亜の護り 関東軍

 

五、
旭日の下 見よ瑞気
八紘一宇 共栄の
大道ここに 拓かれて
燦々たりや 大陵威
皇軍の華 関東軍

 

 

 その他、前述した「爆弾三勇士の歌」の類が、軍歌、戦時歌謡含めてたくさんある。「爆弾三勇士の歌」では、偶発的な事故にも関わらず、三人の工兵が肉弾もろとも敵の鉄条網を突破したことになっており、如何に士気を鼓舞するとはいえ、まやかしはいかんと思う。個々の戦闘では、負けたりしても、その話は緘口令がしかれて語られず、逆に威勢のいい話が新聞紙面を賑わせる。

かくして、日本は無敵である、神国であるという妄想に、殆ど全国民が取りつかれていたのだ。

太平洋戦争が始まった1941年(昭和16年)には、あの山田耕筰作曲の「なんだ空襲」という戦時歌謡が発表されたが、これなどは空襲の悲惨さを後で体験した人からみれば、非常な反感を覚えるような、空襲の恐ろしさを軽視した歌である。

「焼夷弾なら 馴れ子の火の粉だよ 最初一秒 ぬれむしろ かけてかぶせて砂で消す」とか「さほどでもない毒瓦斯よ」といった文句が、実際に焼夷弾が何発もの子弾でできて周囲に飛散し、とてもむしろで消せる代物でない、毒ガスなど陸軍習志野学校での遺棄ガスで死んだ者もいるということを知っている我々からは、非常に馬鹿げた歌詞である。

 

要は、今にして思えば空疎な歌詞が有名作詞家によってつくられ、それが勇ましいメロディーにのって流されていたのである。

 

 

なんだ空襲

作詞 大木惇夫
作曲 山田耕筰

一、

警報だ 空襲だ

それがなんだよ 備えはできてるぞ

こゝろひとつの 隣組

護る覺悟が あるからは

なんの敵機も 蚊とんぼとんぼ

 

勝つぞ 勝とうぞ

なにがなんだ 空襲が

負けてたまるか どんとやるぞ

 

二、

警報だ 空襲だ

焼夷弾なら 馴れこの火の粉だよ

最初一秒 ぬれむしろ

かけてかぶせて 砂で消す

見ろよ早技 どんなもんだもんだ

 

勝つぞ 勝とうぞ

なにがなんだ 空襲が

負けてたまるか どんとやるぞ

 

三、

警報だ 空襲だ

こをいこをいも 瓢箪おばけだよ

さほどでもない 毒瓦斯よ

もつとこわいが 流言だ

どつこいその手に かゝかるな乗るな

 

勝つぞ 勝とうぞ

なにがなんだ 空襲が

負けてたまるか どんとやるぞ

 

四、

警報だ 空襲だ

どんなマスクも 防空壕でもよ

心こめなきゃ そらだのみ

鉄の心と日の 意気で

持ち場持ち場に かけよういのち

 

勝つぞ 勝とうぞ

なにがなんだ 空襲が

負けてたまるか どんとやるぞ

 

五、

警報だ 空襲だ

敵機何台 来ようと平気だよ

ここに頑ばる やまとだま

守るわが家 わが町だ

一つ輪になる ちからよちから

 

勝つぞ 勝とうぞ

なにがなんだ 空襲が

負けてたまるか どんとやるぞ

 

 <なんだ空襲>

 

 

 よくあることですが、上記YouTubeの歌詞も間違っています。正しい歌詞は、「焼夷弾なら馴れこの火の粉だよ」のところ、「焼夷弾なら護れこの火の粉だよ」と書き間違っています。

 

戦時中は、学業を途中で放棄させられ、軍需工場等に勤労動員された若者も多かった。その象徴であるのが、「あゝ紅の血は燃ゆる」。

1944年(昭和19年)9月に日蓄レコード(現在のコロムビアレコード)から発売された、軍需省推薦の戦時歌謡である。

 

野村俊夫作詞、明本京静作曲、奥山貞吉編曲で、日蓄では酒井弘、安西愛子が歌った

 

「花も蕾の若桜 五尺の生命ひっさげて

国の大事に殉ずるは 我等学徒の面目ぞ

ああ紅の血は燃ゆる」

 

戦後、鶴田浩二が好んで歌って有名になった。しかし、実際は、歌詞にあるような勇ましさ、潔さは、国家によって巧みに演出されたものであることは、終戦後明白になった。戦時中の若者の純粋な奉仕にも関わらず、戦後になると、多くの高級将校が軍需物資を隠匿したり、持ち逃げしたりしたのである。

 

<あゝ紅の血は燃ゆる>

 

 

 本音を吐露した兵隊ソング

 

軍歌というジャンルではないが、軍人が歌った歌に、いわゆる兵隊ソングがある。これは「いやじゃありませんか軍隊は」の「軍隊小唄」とか「可愛いスーちゃん」というような類である。こういう歌は、人間的であり、本音を吐露したものといえる。なかには、多分に猥雑なものもあるが、四角四面の鋳型にはめられた環境からして、やむをえないものもある。

海軍では「海軍小唄」、すなわちズンドコ節であるが、のちにテレビ番組などで大いにはやった。しかし、節が若干違う。ただ、小林旭のズンドコ節よりは、ドリフターズのほうが原型に近い。囃しの部分をかえれば、ほぼそのままである。

一般には、以下のような歌詞である。

汽車の窓から 手をにぎり 
送ってくれた 人よりも 
ホームの陰で 泣いていた 
可愛いあの娘が 忘られぬ 
トコズンドコ ズンドコ

花は桜木 人は武士 
語ってくれた 人よりも 
港のすみで 泣いていた 
可愛いあの娘が 目に浮かぶ 
トコズンドコ ズンドコ

元気でいるかと 言う便り
送ってくれた 人よりも
涙のにじむ 筆のあと
いとしいあの娘が 忘られぬ
トコズンドコ ズンドコ

このズンドコ節は、予科練などで歌うのは、十年早いと言われそうであったが、実施部隊では結構歌われていた。それも部隊ごとに歌詞が違うのである。

以下は愛知県の河和海軍航空隊の例。

ここで別れちゃ 未練がのこる  
せめて河和の 駅までも
送りましょうか 送られましょか
可愛いあの娘の 目に涙
 
今日も暮れゆく 河和の町を
肩で風切る 小意気なすがた
あいつは誰だと よくよく見れば
上陸がえりの 士官さん

エスになるなよ 堅気になれと
やさし母ちゃんが 泣いて言うた
だけど私は 堅気にゃなれぬ
可愛いインチに 会えぬもの


註) エス:海軍の隠語で芸者のこと インチ:御馴染さんの意味、ここでは航空隊員のこと

 

上記歌詞は、読売新聞(1983年8月15日)に掲載された故・黒田健二郎氏(一期予備生徒として東京の大学から河和海軍航空隊に配属)の文による。

 

 <海軍小唄(ズンドコ節)>

 

 

参考文献:  軍歌「戦友」 井伏鱒二 

参考サイト: ブログ御塩倶楽部  

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