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日本で作曲された中国国歌 |
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数奇な運命をたどった『義勇軍進行曲』とその作者 |
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30年ほど前、千葉県の佐倉で、地域活動をされていた方であるが、中国から帰国した年配男性とちょっとしたことで話をしたことがある。その人は、小生よりも年長で、その地域の世話役活動のようなことをしていて、環境問題に取り組んでいた。当時は公害、環境汚染が社会問題になり、世の中の人の環境に関する意識も高まりつつある頃であった。
話をしていると、その人が戦時中、中国に出征し、八路軍か新四軍か分からないが、のちの人民共和国となる勢力の軍隊の捕虜となって、しばらく中国にいた後、日本に帰国したことが分かった。
周知の通り、中華民国は、孫文の指導する辛亥革命により、北京を都とした清朝が倒れ、1912年(明治45年)1月1日に南京にて成立した。孫文は一時袁世凱と手を結び南北統一をはかったが、袁世凱は北京で専制政治を行い、1915年(大正4年)には日本から突きつけられた「対華二十一ヶ条の要求」を批准、帝政に戻ることを宣言して国内諸勢力の反発をうけ、権威を失墜、1916年(大正5年)に死去すると、中国は再び軍閥が割拠する状態となった。
孫文は、国民党を率いる立場でありながら、中国共産党に党籍をもったまま、国民党へも入党を認めることとし、第一次国共合作を行い、ソ連とも歩み寄った。「革命尚未成功、同志仍須努力(革命未だならず、同志須く努力せよ)」という言葉を残して1925年(大正14年)孫文が死去した。孫中山と号し、日本でもなじみの深い孫文は、死後も「国父」として慕われた。
その後、跡をついだ蒋介石は1926年(大正15年)に北伐を開始、翌1927年(昭和2年)には南京を占拠して、いったん軍閥割拠から統一政府の時代へ移る。蒋介石は中国共産党を敵視し、国民政府軍と共産党の影響力のある人民の軍隊が争うことになる。しかし、父張作霖を日本軍の謀略によって爆殺された、張学良が蒋介石を捕まえて共産党との協同を呼びかけた西安事件、第二次国共合作を経て、共産党の影響力をもった軍隊が国民党所属の第八路軍として国民政府軍に組み込まれるにいたった。
その後、板垣征四郎大佐や石原莞爾中佐ら首謀の関東軍謀略による、1931年(昭和6年)9月18日の柳条湖での満鉄爆破に端を発する満州事変(中国では九・一八事変という)で、関東軍はこれを「張学良ら東北軍の破壊工作だ」と主張し、軍事行動を旧満州全域に展開、さらに、1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件(中国では七・七事変という)を契機に日中全面戦争に突入。国民政府は日本軍の攻勢におされ、首都南京を放棄、重慶に都を移して抵抗した。一方、日本軍は国民党の反蒋介石派であった汪兆銘を首班とした新たな国民政府(汪兆銘政権)をたてて、蒋介石の国民政府と対抗させた。 |
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<『義勇軍進行曲』の楽譜> |
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出典:http://www.al.gov.mo/lei/col_lei-02/cn/05a.htm, http://www.al.gov.mo/lei/col_lei-02/cn/song.gif |
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この頃、中国民衆の民主革命への要求は、文化・政治のいろいろな分野であらわれていたが、映画『風雲児女(嵐の中の若者たち)』(1935年)の主題歌、『義勇軍進行曲』(作詞:田漢、作曲・聶耳(ニエアル)は、単なる映画の主題歌としてでなく、労働者・学生らの抗日デモで歌われたり、中国東北部(旧満州)の東北義勇軍の軍歌として歌われた。映画のなかのその歌は、映像をみれば、若者たちが剣や農具、釘など、手に手に武器を持ち、老人の甲高い号令のもと、喇叭を吹いて行進するのだが、ちょっとコメディータッチで、行進の青年たちのなかで、若い女性が歌いながら笑っており、後に国歌となるとはちょっと想像できない。 |
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<聶耳> |
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映画の主題歌から軍歌、そして国歌へ |
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この「起来! 不願做奴隸的人們!(起て、奴隷になることを願わぬ人々よ)」の歌声は中国民衆の共感を呼び、中国各地へ伝わり、抗日戦争から解放戦争まで、祖国のために奮闘するよう呼びかけた。田漢は、湖南省長沙出身で、中国芝居の創始者、戯劇改革の先行者、『近代の関漢卿』と呼ばれた。彼は、1921年(大正10年)に日本留学を終え帰国し、郭沫若らと「創造社」を結成。その後「南国劇社」「南国芸術学院」などを立ち上げ、『珈琲店之一夜』『獲虎之夜』などの脚本を発表した。『義勇軍進行曲』を作詞した当時すでに中国共産党員であった。また田漢と親交のあった郭沫若は、中国一流の文学者であり、同時に国民党員、実は中国共産党の秘密党員であったが、一時蒋介石と対立、1928年(昭和3年)から日本に亡命していた。
作曲した聶耳(聶守信)は雲南省昆明市の出身、学生運動もしたが、若い頃上海で芸術活動をした人物で、やはり中国共産党員。1935年(昭和10年)、田漢ら多くの左翼芸術家が相次いで国民党当局に逮捕された。その年の4月には、当局が聶耳を逮捕するつもりだという情報が伝わってきた。そこで共産党組織は、聶耳をまず日本に避難させ、時機を見て欧州かソ連へ行き、勉強するよう手配をした。 |
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<田漢と親交のあった郭沫若(レリーフ:市川の須和田公園)> |
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当時、上海の電通会社が映画『風雲児女(嵐の中の若者たち)』を撮影。田漢が獄中でこの映画の主題歌の作詞をし、それは人づてに密かに持ち出された。日本へ行く準備をしていた聶耳はこのことを知り、自ら進んでその歌詞に作曲したいと言い、日本で推敲を行って、5月初、決定稿が完成し、書留郵便で上海に送られた。しかし、聶耳はこの曲をかいた1935年(昭和10年)7月、藤沢鵠沼海岸で遊泳中に水死。藤沢の故地には記念碑が藤沢市民の手で建てられている。初代の碑は、1949年(昭和24年)に藤沢市民によって建てられたが、後に台風で流され、今の記念碑は1965年(昭和40年)に再建されたもの。 |
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<聶耳の出身地、昆明に残る古い街並み> |
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さて、日中戦争下の中国には国民政府、日本軍の作った汪兆銘政権、中国共産党と三つの政治勢力が分立していたが、汪兆銘政権は民衆の支持を得られず孤立、国民政府軍と共産党の影響力のある八路軍、新四軍はともに日本軍と戦った。その際、田漢と聶耳の作った『義勇軍進行曲』は、大いに抗日戦を戦う中国人民を励ました。
1945年(昭和20年)8月15日、日本は連合国に対し、無条件降伏をする。その結果、中国は日本の植民地支配から解放されたが、新たな火種は国民政府と中国共産党との間で勃発することになる。1946年(昭和21年)にはアメリカの後押しをする国民政府とソ連から援助をうける中国共産党が武力で対峙する国共内戦となる。国民政府は、1947年(昭和22年)に憲法を制定し、蒋介石を総統として内外にアピールしたが、国民のおおきな支持を受けることが出来ず、1949年(昭和24年)4月、ついに首都・南京を中国共産党の影響力のある軍隊に占拠され、事実上国民政府は崩壊し、台湾に脱出するにいたった。
こうして中国大陸から国民政府の勢力が撤退した1949年(昭和24年)10月、新中国、中華人民共和国が建国される。その中華人民共和国の暫定国歌とされたのが、映画『風雲児女』の主題歌で、後に本当の義勇軍の軍歌となり、中国民衆に歌われた『義勇軍進行曲』。しかし、それが暫定国歌として歌われた期間は短かった。
新中国の指導者の一人であった毛沢東が権力を握り、1958年(昭和33年)から1960年(昭和35年)にかけて無謀な大躍進政策を推進、多くの農民の犠牲を出した。その最中の1959年(昭和34年)廬山会議において、副首相・国防相をつとめた軍人(元帥)で共産党の古参幹部・彭徳懐が、毛沢東に対して大躍進の問題点を諫めたが、毛沢東は怒って彭徳懐元帥の国防相、中央軍事委副主席の職を解任した。 大躍進政策は、ソ連の計画経済の成功に触発された毛沢東が発案した、農工業の大増産政策である。毛沢東は、市場原理を無視したこの政策で、15年でイギリスを経済力で抜くと豪語したが、農村で土法炉を使った製鉄を奨励するなど、無謀な面が多々あって、農民は農機具を溶かして劣悪な鉄を作り、農村は疲弊、数千万人(三千万以上)と言われる餓死者を出した。 それを自身が貧農出身で、農村を視察して現状を目の当たりにした彭徳懐が毛沢東に直言したわけであるが、かえって自己の権威を守ろうとする毛沢東の恨みを買い、彭徳懐は解任されたのである。
これを契機に、文革が始まると、多くの罪もない文化人、党幹部が弾圧されるにいたる。それは大躍進政策の失敗で威信を低下させた毛沢東の権威を高めるための反動であり、同時に民衆の要求とはまったく関係ない便乗者による権力確保のための動きで、それに政治的・社会的に未熟な年少の紅衛兵たちが利用されたといえよう。
1966年(昭和41年)にその文革が始まると、『義勇軍進行曲』の作詞者である田漢も厳しく批判され、無実の罪を着せられて、逮捕された。それに伴って、『義勇軍進行曲』も1966年(昭和41年)からは「政治的問題がある」として歌われなくなった。かわりに歌われたのが、思い出すのも忌まわしいが、『東方紅』で毛沢東礼賛以外の何ものでもない。劇作家としても一流であった田漢は、1968年(昭和43年)12月10日に獄死した。それに加え、死後の1975年(昭和50年)、田漢は「裏切り者」として、中国共産党から永久に除かれるという仕打ちをうけた。輝かしい文化活動を行った、人のたどった人生の最後の何という悲惨。
例の四人組が逮捕され、文革が終了した1979年(昭和54年)になり、中国共産党は元々無実であった田漢の名誉を回復、『義勇軍進行曲』も1978年(昭和53年)には、本来のものと異なる歌詞で国歌として歌われることになった。しかし、その歌詞は「集団作詞」によるもので文革の名残があり、「毛沢東の旗を高く掲げよ」という言葉が挿入されていて、本来の歌詞は、最後の「前進!
前進! 進!」という部分のみであった。
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<文革の犠牲になった田漢> |
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『義勇軍進行曲』の作詞者も作曲者も、数奇な運命をたどったが、『義勇軍進行曲』そのものも、映画挿入歌から中国国歌となったり、文革で歌われなくなったり、その後復活するも歌詞を大幅に変えられたりと、大きな変転があった。 |
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『義勇軍進行曲』は再び |
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1982年(昭和57年)になってようやく、人民代表大会で、中国国歌は本来の歌詞に戻され、『義勇軍進行曲』を再び副題とすることが定められた。ところで、小生に中国の歴史を一端を教えてくれた佐倉の世話役の人は、地域活動家であったが、同時に日本中国友好協会にも関係していたと思う。人間の運命など、本人が若いときには想像もしていないものだ。佐倉の世話役の人も、中国の文化人も、そして小生も。 『義勇軍進行曲』(現在の中国国歌)
映画『風雲児女』(1935年)YouTubeより |
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『義勇軍進行曲』の作詞者田漢、作曲者聶耳、田漢と親交のあった郭沫若、すべて一時期日本にいたことは偶然とはいえ、不思議なめぐり合わせである。 |