工兵学校の演習

陸軍工兵学校の演習について紹介します。

 

 陸軍工兵学校の演習

 

陸軍工兵学校では、工兵教育のため諸種の教育を実施、工兵関係学術の調査研究を行うなどを目的として設立された。

 

その工兵教育は、全般的な戦術、工兵用法を前提に、工兵が行う|枉襦↓坑道、8鯆漫焚誘供不整地通過)、づ浪蓮↓サヽ2什邏箸箸い辰進野について、実兵指揮と連動した、工兵技術を発揮できるような、具体的なものであった。

 

その教育は種々の実践的な練習問題を含む座学のほかに、工兵学校の演習場での演習、その他遠征による転地演習も多く行われた。そういう演習場の整備は、初代古賀啓太郎校長、二代若山善太郎校長の学校創立期に主として行われた。本部、兵舎、講堂、給排水設備などの設備は、その当時に整えられた。

また、演習場として八柱演習場や校南作業所、相模台作業所が整備され、八柱廠舎の移築、工兵学校〜八柱間の軌道敷設、江戸川両岸での渡河施設の整備が大正期にかけて行われた。

 

<初代校長 古賀啓太郎>

 

 古賀啓太郎は、初代の工兵学校校長(就任当時は陸軍大佐)。陸軍工兵第13大隊長から1919年(大正8年)12月1日に工兵学校長に就任。1924年(大正13年)12月14日まで、5年間学校長を務め、工兵学校の体制を整え、学校設備や演習場、その他施設を含めた基礎固めを行った。工兵学校長の時に陸軍少将に昇任。1924年(大正13年)12月15日付けで東京湾要塞司令官となった。

 

 

甲種学生とは、将校として工兵隊の幹部たるものである。甲種学生教育は、1920年(大正9年)12月に始まった。1921年(大正10年)4月に教導大隊が設立されると、甲種学生教育は教導大隊が組織的に担っていくことになった。甲種学生の教育は概して12月入校、翌7.8月卒業で、一般共通科目は6ヶ月、鉄道出身者に対しては更に3ヶ月鉄道省で委託教育を行った。教育課目は、戦術・築城・架橋・機械・土木・坑道・写真・鉄道・測量などであった。

 

また乙種学生(上等工長たるべき各隊の曹長、稀に軍曹を選抜)については、各期10名程度集め、校内で居住教育が行われた。教育期間は約1年間。教育課目は、機械・土木・電気・測量などであった。この上等工長養成教育は、1930年(昭和5年)7月まで続いた。

 

甲種、乙種学生以外に、交通術修得臨時学生もおり、その他時として団隊長召集などの教育も行われた。

 

教育は教導大隊(当初二個中隊編成、1933年(昭和8年)に教導隊と改称、一時四個中隊編成となった)や教育部が担ったが、当初教育部は研究部が1933年(昭和8年)に出来るまでは、工兵技術の調査研究という研究部の役割も担っていた。

 

またそういう実施学校としての教育に付随して、当初教導大隊の第二中隊が下士官候補者教育を担い、1933年(昭和8年)8月に教導隊の編成内に下士官候補者隊が創設されると、下士官候補者隊が下士官教育を専門に行うことになった。

 

幹部候補生教育については、1939年(昭和14年)8月に正式に幹部候補生隊が発足する前の1938年(昭和13年)1月から、工兵学校において見習士官、将来の工兵将校を育成すべく実施された。ただし、太平洋戦争の敗色が濃厚となった1944年(昭和19年)後半からは、候補生の一部は南方へ転属となり、残された候補生も食糧不足の折から、自ら鍬をとって畑を耕す有様で、1945年(昭和20年)4月からは本土決戦のために候補生を出身地別に9個中隊に編成し、久留米、豊橋、津山の予備士官学校に移駐せしめた。

 

 

<初代教導大隊長 上村友兄>

 

 

 上村友兄は、初代の教導大隊長(当時は陸軍中佐)。1921年(大正10年)4月1日から1924年(大正13年)2月4日まで教導大隊長、その後陸軍大佐となって工兵監、工兵学校教育部長を経て、1929年(昭和4年)8月陸軍少将に昇任、1931年(昭和6年)8月1日より1933年(昭和8年)9月21日まで工兵学校長。1933年(昭和8年)8月陸軍中将、同年9月22日東京湾要塞司令官。翌年予備役。

 

  演習場の現況

 

陸軍工兵学校に付随する演習場としては、以下のものがあった。

・八柱演習場(八柱作業場)

・校南作業場

・相模台練兵場

・江戸川架橋場

・胡録台作業場

このうち、校南作業場は文字通り、工兵学校の南側の台地にあり、現在は法務局から裁判所、公務員宿舎、相模台小学校の敷地となっている。松戸拘置所になっている場所は、かつて火薬庫があった場所である。この台地の西南にある相模台公園は、かつての馬場跡で陸軍境界標石などが残る。

また、相模台練兵場は、現在の松戸一中前の住宅地、市営住宅などを含む国道6号線までの台地にあった。今はその周辺は住宅が建ち並ぶ場所となり、何も遺構が残っていない。戦後間もないころは、防空壕などがかなり数多く残存していた。

胡録台作業場は、1942年(昭和17年)に農地8万坪を買収したもので、装甲車廠が六軒建っていて後に兵舎に改造されたという。この兵舎は戦後引揚者住宅となっていたが、その後県営住宅や一般住宅地となった。その一部からは防空壕跡が見つかっている。

 江戸川架橋場は、文字通り江戸川で架橋、渡河の演習をする場所で、納屋川岸にあった。この架橋演習は、納屋川岸の陸閘(りくこう)の下から川向側岸まで、鉄舟を並べた上に頑丈な厚板が渡され、即席の橋とし、その上を戦車や自動車が通るというものである。

今は当時の堤防ではなく、堤防自体が大きく変わっている。納屋川岸は、松戸市がたてた案内と昔の堤防までのぼる坂道が名残をとどめる程度である。

 

<現在の江戸川・納屋川岸付近>

 

 

<納屋川岸の旧家がわずかに当時の面影をとどめる>

 

 

現在、新京成のみのり台駅を含む稔台一帯は、かつて陸軍工兵学校の八柱演習場であった。八柱作業場ともいうが、同じことである。これは大正期から昭和初期にかけて、三度拡張され、和名ヶ谷、日暮、松戸新田にまたがる、総面積は約115万平米、(35万坪)という広大な演習場であった。

戦後は八柱演習場は市川の野戦重砲兵第26連隊(連隊長:田地季朔中佐)および東部第74部隊からの復員軍人で構成された帰農者、入植者62名に開放された。この稔台という地名も、1946年(昭和21年)に大きな「みのり」を期待して名づけられたものである。

演習場の北側、現在の新京成みのり台駅周辺には、かつて八柱廠舎があり、廠舎の東側には演習場の南北を縦断する道があったが、現在は松戸新田から和名ヶ谷へ通じる道路として商店が建ち並んでいる。演習場の東側にある弁天谷は、低地になっており、弁財天の祠が祀られていた。この弁財天は、今は「みのり神社」と呼ばれている小さな神社で、隣接して児童遊園地と自治会館がある。近隣の人にうかがうと、小さな神社ではあるが、今もその神社は大みそかから正月にかけて、大変な人出となるという。その敷地には、稔台開拓50年記念碑が建っているが、開拓は前述の通り旧軍人主体で行われた経緯もあり、その記念碑も一種の戦争遺跡というべきであろう

 

稔台開拓50年記念碑>

 

 

  工兵学校演習の実際

 

 陸軍工兵学校の演習は、実際にどのように行われたのだろうか。『陸軍工兵学校』や実際の演習で用いられた資料から、各分野ごとにその様子をたどって見ることにする。

なお、実際の演習は、八柱演習場(八柱作業場)、校南作業場、相模台練兵場、江戸川架橋場、胡録台作業場といった、陸軍工兵学校に付随する演習場で行われたほか、転地演習と称する遠征で行う演習については、富士演習場や利根川(波崎)、木曽川(犬山)などでも行われた。

 

<八柱演習場の見取図>

 

 

『稔台ものがたり』 大井藤一郎編著 「第二章 陸軍八柱演習場時代」(杉田源兵衛)より

 

   築城

 

 築城とは、陣地を構築、あるいは防御する工兵の作業である。初期の時代においては築城とは散兵壕や鉄条網の構築、さらに煙用法、偽装、対戦車障碍物構築などがその作業として挙げられた。しかし、満州事変以降、対ソ戦法の研究が深まり、数線陣地、縦深陣地の攻防、ガス防護、対戦車地雷設置・排除などを含めた、陣地攻防演習が活発に行われた。 

1940年(昭和15年)頃には特種陣地攻撃における諸兵連合が研究され、地雷原処理、対戦車攻撃、装甲作業機を併用する特火点攻撃、対戦車壕の爆破、超越などの演習が行われた。

 

<戦車壕の爆破(八柱演習場)>

 

 

 『陸軍工兵学校』(工友会著 1977年)より

 

   坑道

 

 坑道作業は、本来攻城・地中戦のためのものである。初期の段階から、坑道作業の演習は行われてきた。しかし、重掩蔽部構築に力点が置かれて演習などが行われた時期もあった。

八柱演習場では、種々の坑道作業の演習が行われたが、1929年(昭和4年)頃には、校南作業場で運土研究が行われた。

「コ」号作業、という特種作業は、堀進機を用いた迅速穿孔作業を意味するが、1936年(昭和11年)頃から盛んに研究演習が行われた。例えば、1936年(昭和11年)3月11日から4月14日まで、八柱演習場で一昼夜約300m穿孔を目標とした演習が行われた。

坑道作業は、下士官候補者隊においては原隊からの要請もあり、基本教育に加え、沙流地坑道堀進、坑道爆破の教育も実施された。

 

 <坑道演習>

 

 

 

 現在、新京成のみのり台駅を含む稔台一帯は、かつて陸軍工兵学校の八柱演習場であった。現在は「みのり神社」と称しているが、八柱演習場の東側には弁財天が祀られている。付近は南北の台地に挟まれたなだらかな傾斜の谷となっており、弁天谷と呼ばれていた。演習場があった当時、その付近では坑道演習が行われていたという。また、その弁財天には、毎朝指揮官が演習の無事を祈ったということである。

 

  交通(架橋、不整地通過)

 

 工兵の重要な任務として、交通に関わる作業があり、部隊を通過させるために川に橋を架ける、湿地帯や森林、断崖といった不整地を通過するための措置を講ずる、あるいは逆に鉄道や橋脚を破壊して交通を遮断するなどの作業を工兵は担った。

部隊装備の重量化に伴う耐重橋架設の研究は、1925年(大正14年)の旭川における横桁木橋架設特工演習などを通じて行われた。また、1930年(昭和5年)には、教導大隊による八条橋(埼玉県)の架設が民間から委託されて行われた。

不整地の通過については、旧北満州における対ソ戦を想定した森林地帯の通過、湿地の通過、あるいは揚陸作業に伴う断崖攀登を研究、具体的な演習を行った。例えば、1937年(昭和12年)5月には北海道の北見の原始国有林で、森林通過の特別演習が行われている。特に機械化による密林の迅速突破が研究、演習された。

湿地帯の通過についても、同様に旧北満州での戦闘を想定し、かんじき、浮嚢舟、重簾ノ子などの器具を製作設置、さらに湿地橋の架設を行うことを研究、1937年(昭和12年)5月、取手付近で歩工連合湿地交通作業研究演習が行われた。

 

 <大正期の江戸川架橋>

 

 

 

<湿地帯通過についての幹部候補生隊の問題>

 

 陸軍工兵学校幹部候補生隊の練習問題の図(松戸付近、江戸川に沿って湿地帯があり、これを騎兵、歩兵の混成旅団が通過するという想定で、問題が出題されている)

 

   渡河

 

 渡河は、伝統的な工兵の作業であるが、従来は鉄舟を並べた架橋縦列によっていたが、新器材の出現によって、より簡便に渡河が可能となった。その器材とは槽渡用浮嚢舟、軽徒橋であり、それらが開発され、実用化されると、1932年(昭和7年)に勃発した上海事変において、クリークの多い上海での軍の移動に活用された。

さらに渡河の概念を大きく変えたのは、折畳舟である。これは1930年(昭和5年)に工兵学校の渡河教官が中心になって開発したもので、1933年(昭和8年)に九三式折畳舟として制式化された。これは、さらに機航化され、渡河の機械化が検討された。

 

 <犬山での折畳舟による渡河演習>

 

 

  『陸軍工兵学校』(工友会著 1977年)より

 

 大河の渡河については、利根川河口に近い波崎廠舎を基地として演習が行われた。これは、1936年(昭和11年)のソ満国境の河川調査と併せて行われ、明らかに中国東北部の国境付近の紛争を想定していたものと思われる。

 

<波崎での大河渡河演習>

 

 『陸軍工兵学校』(工友会著 1977年)より

   機械化作業

 

当初は自動車整備のための作業員の班が教導大隊に設置されたくらいであったが、1931年(昭和6年)に工兵突撃作業のために装甲作業機が開発され、1934年(昭和9年)に富士演習場で装甲作業機による特火点実爆研究演習が行われた。装甲作業機は主としてトーチカ爆破、火炎放射、戦車のための地雷排除、超壕作業を受け持った。

 

  1924年(大正13年)当時の工兵学校の演習風景

 

 以下は、1924年(大正13年)当時の陸軍工兵学校教導大隊第一中隊による演習風景である。工兵学校の初期の演習の姿をあらわしている。

 

  <当時の教導大隊長 須田利甫中佐>

 

 

須田利甫は、第二代の教導大隊長。1924年(大正13年)2月5日から1926年(大正15年)3月1日まで、教導大隊長を務めた。

 

  <当時の教導大隊第一中隊長 八隅錦三郎大尉>

 

 

 八隅錦三郎は、1923年(大正12年)8月6日から1924年(大正13年)8月19日まで教導大隊第一中隊長。その後、工兵第101連隊長(陸軍大佐)を経て、1940年(昭和15年)2月5日より1941年(昭和16年)10月14日まで教導隊長を務める。1945年(昭和20年)4月陸軍中将に昇任、同6月1日第320師団長。

*第320師団は朝鮮半島・京城で編成。8月9日のソ連対日参戦を受けて歩兵第362連隊を咸興に派遣、師団主力は元山に移動途中にて終戦。

 

<召集団隊長たちが単技術を見学>

 

 

 <単技術の実施>

 

 

 

 <岩石地における鏨岩機の使用>

 

 

 

 <支攪点の攻撃>

 

 

<内務班の兵士>

 

 

内務班は起居をともにする兵営の最小単位であり、下士官を班長とし、下士官、上等兵、一等兵、二等兵で構成された。この工兵学校教導大隊の中隊にも、内務班があり、第一班から第九班まであった。教導大隊の甲種、乙種学生(将校、曹長など)とは異なる。写真は第五班。兵士の出身も東京や名古屋のような都市部から農村まで様々である。

 

参考文献:

 

       『陸軍工兵学校』 工友会著 (1977)

      『稔台ものがたり』 大井藤一郎編著 稔台連合町会 (1995)

             陸軍工兵学校幹部候補生隊 関連文書  (1940年前後のもの) ほか

 


陸軍工兵学校と松戸

陸軍工兵学校

工兵学校まで敷かれた鉄道連隊演習線

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